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【レポート】「Sumako -或新劇女優探索記-」特別対談 岩崎正裕×宮坂勝彦

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サントミューゼ

「Sumako -或新劇女優探索記-」関連企画
岩崎正裕×宮坂勝彦 特別対談「女優・松井須磨子」
2018年3月3日(土) at サントミューゼ 大ホールホワイエ

 

日本の近代劇を変えた長野県出身の女優・松井須磨子を描く、劇団太陽族の岩崎正裕さんの作品「Sumako -或新劇女優探索記-」。
3月10日(土)、11日(日)の公演に先立ち、作・演出を手がけた岩崎さんと、約30年にわたって須磨子や地域の研究を続ける「松井須磨子芸術倶楽部」主宰の宮坂勝彦さんによる特別対談が行われました。

 

 

最初に「10分で分かる松井須磨子の生涯」として、宮坂さんが写真や家系図を交えながら彼女の軌跡を解説。
1886年に松代町で生まれた須磨子は、6歳から養女として上田市の長谷川家で暮らしました。
宮坂さんは当時の上田の地図を紹介し、
「長谷川家は上田郵便局のあたりにあったという説や書店だったという説、上山田温泉ホテルの向かい側にあったという説などがあります」

 

 

さらに当時の新聞に掲載されたレコード広告や、須磨子が所属した劇団「芸術座」の多忙ぶりが分かる年間スケジュールなど、興味深い資料も多数登場。
須磨子の恋人だった「芸術座」主宰の島村抱月が急死した際の葬儀写真も紹介されましたが、当時の不鮮明な写真であっても、須磨子の表情からは大きなショックと喪失感が伝わってきました。

 

岩崎さんもまた、今作を作るにあたり多くの資料を読み、長野や東京の須磨子ゆかりの地に数多く足を運んだと振り返ります。

 


「おそらく100年少し前、須磨子もここを歩いたんだろうなと地面を踏みしめながら松代のご実家を訪ねました。

上田の柳町にあった中村座跡も訪ねましたし、須磨子の聖地巡礼をする中で宮坂さんにお会いして、いろいろなことをお聞きした。

この作品を書くことは、大変貴重な経験でした」

 

 

岩崎さんが須磨子に関する著書や評伝を読んだところ、周囲の人が彼女について褒めている表現はあまり見られなかったそう。

それに対して宮坂さんは、

 


「時代背景を考えると、当時の芝居は興行師と呼ばれる人たちが取り仕切り、彼らへの挨拶を怠ると血の雨が降ると言われたほど。

しかも当時、女優には人権なんてありませんでした。

そんな時代に早稲田大学や抱月のバックアップを受けていた須磨子は、周囲から嫉妬があったのではないでしょうか。

もう一つ感じるのが、松代の研究をしていると、同じ松代出身の佐久間象山も松井須磨子も、自分の正義や信念を曲げない。

他者をあまり考えないんです。それも影響があるのではないか」
「確かに象山と須磨子は似ていますね、東京への挑み方だとか、忖度では動かないところも。

それは信州の人の特質なんでしょうか」
と岩崎さん。

 

 

須磨子が恋に身をやつした島村抱月もまた、10代までを島根で過ごした人物。

二人は東京で暮らす地域人として肌合いが合ったのではないか、と、脚本を書き進める中で感じたそうです。

 

さらに、
「須磨子の生きた100年前と今では、違うことより重なることが多いと感じます」
と岩崎さん。
妻子ある身だった抱月との恋愛は、世間に強く批判されました。

そんな模様は、昨今の週刊誌をにぎわす不倫報道と通じるところ。
さらに劇団の運営資金や恋愛問題なども、現代の小劇場のすったもんだととても似ている感覚があるのだと話します。

 

 

宮坂さんは抱月の芝居への思いについて、
「彼が夢見たことは、自分たちで作った芸術座と小屋でいろいろな人を育て、やがて総合的な芸術大学にしていきたいという思い。

そのため、自らの足場をきちんと芝居に置いていたことはすごいことだと思います」
と語り、岩崎さんも
「僕らが今やっている芝居のベーシックなところを、100年前にすでに作ろうとしていた人がいた。

それを学ぶいい機会になりました」
と頷いていました。

 

また、公演会場に続くプロムナード2階で、3月11日(日)まで開催されていた松井須磨子資料展からは、当時の公演写真や新聞記事、抱月からの手紙など貴重な資料を通して、須磨子という人物と当時の空気が伝わってきました。

 


松井須磨子、その女性としての生きざまや島村抱月との恋、芝居への思いを描いた「Sumako -或新劇女優探索記-」。

時代を超えて私たちに語りかけてくるものがあるのかもしれません。