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【レポート】2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」 記念講演会

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2016年NHK大河ドラマ特別展「真田丸」をもっと楽しむ関連企画として、記念講演会を2回にわたり実施しました。
第1回 記念講演会「真田弁丸をめぐって」 講師 寺島隆史   2016年7月10日(日)13:30~


真田幸村。実名は信繁。彼は少年時代に「弁丸」と名乗っていました。その弁丸時代の足跡をたどるというのが、この特別展「真田丸」第1回講演会の内容です。講師は、長年にわたって真田氏研究を行ってこられた、上田女子短期大学非常勤講師・元上田市立博物館館長の寺島隆史さんです。
寺島先生1
はじめに、寺島さんは「幸村」の名の由来についてコメント。真田信繁の名前は軍記物で「幸村」と呼ばれているが、これはその作者によって意図的に変えられたもので、父・昌幸の「幸」と、徳川家に祟ったという「妖刀村正」の「村」を組み合わせて、「幸村」という名前を創作したのではないかと考えているとのことです。
【厩橋(前橋)にいた弁丸】
天正10(1582)年3月、武田勝頼が滅亡し、織田信長が信州へ進軍してくると、武田に従っていた真田昌幸は信長に従い、その重臣・滝川一益の居城としていた厩橋城(現在の群馬県前橋市)に出向き、人質として弁丸を差し出したのだろうと寺島さんは推測しています。そのわずか3か月後、信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれると、滝川一益は本国の伊勢へ引き上げるため、厩橋城を引き払い信濃を通過しようと計画。その際、厩橋城に出されていた信濃小県郡・佐久郡の国衆の人質を連行したらしく、その中に弁丸も入っていたらしいと解説いただきました。
【弁丸、木曽へ】
また、滝川が連行した弁丸を含む人質は、美濃国との境を接する木曽まで来たところ、木曽の国衆・木曽義昌に引き渡され、そのまま木曽にとどめ置かれたらしく、その証拠となる書状の写しが2015年に発見されたことを紹介。数え年13歳の弁丸が、祖母の甥で真田家重臣の河原綱家宛に出した手紙であることが確認されたそうです。手紙の末尾には「きそより」「弁」と書かれており、仮名交じりのまだ幼さが残る文面であるとのことでした。
寺島先生2

【徳川家康に利用された弁丸】
その弁丸は、同じ年天正10年9月頃に徳川家康に従った木曽義昌から徳川方に引き渡され、真田昌幸の元に戻ったと推測。家康は、徳川の敵であった小田原城主・北条氏直氏に従っていた真田昌幸を、徳川方に鞍替えさせるため、弁丸を持ち駒に使ったのではないかと考えているとのことでした。
【弁丸、上杉景勝の人質から家臣へ】
真田昌幸が家康に従った翌年の天正11年4月、上田城築城が始まりますが、これは昌幸が家康をたきつけて上杉景勝への最前線基地として築城させたものであるそうです。その後、真田領だった上野国吾妻郡・利根郡の引き渡しを勝手に決めた徳川・北条と対立した昌幸は、徳川家康と断交し上杉景勝に従い、その証として弁丸を人質として景勝に差し出します。
弁丸はこの時、景勝から家臣として遇され、上田に隣接する信濃国更級郡・埴科郡の屋代秀正の旧領を与えられたと寺島さんは推定しています。それを物語るのが、今回の特別展に出品された《弁知行宛行状 諏方久三宛》であるとのことでした。
この書状は「弁」と署名のある領地支配保証書ですが、この書状を書いた人物が誰なのかということは今までしっかり考察されることはありませんでした。寺島さんが近年、この「弁」こそ「弁丸=信繁」であるとの説を出して以来、弁丸書状であるという考え方が定着してきたのだそうです。

 

寺島先生3

 

【信繁は第1次上田合戦に参加した】
天正13年閏8月の上田城を舞台とした真田昌幸と徳川軍との間で起こった第1次上田合戦では、信繁は越後・春日山城の上杉景勝のもとから帰国し参加したと考えられるとのこと。お話はさらに第一次上田合戦から関ヶ原の戦いへと及び、一時間半にわたる講演会は終了しました。
寺島さんは「先入観を持たずに」「素直に史料を読み解く」ことで事実が明らかになってくると話しました。大河ドラマ「真田丸」では、寺島さんの説に基づいた構成がいくつも見られます。これまで信じられてきた定説を再度吟味して歴史史料を評価し直す姿勢は、長年にわたる地道な研究に裏打ちされた説得力を持っていました。

 

 

 

第2回記念講演会「真田幸村と大坂の陣」 講師 北川央 2016年8月11日(木・祝)13:30~


 

大坂の陣で豊臣方の武将として一躍名をはせた真田信繁。江戸時代には「真田幸村」の名で広く知られるようになりました。特別展「真田丸」第2回講演会では、真田幸村の大阪の陣での活躍と実像について、大阪城天守閣・北川央館長に講演をいただきました。
北川先生1
【幸村は多額の軍資金を下賜された】
講演は当時の手記等の史料をもとに話が進みました。それによると、大坂冬の陣の直前の大坂方の様子は「近隣から米を買い集めている」「大坂城の総構えに塀を設け、丸太で組んだ櫓〔やぐら〕などを作っている」「ますます多くの浪人たちを召し抱え、真田幸村は黄金200枚、銀30貫目を支給された」ことなどがわかり、幸村が大坂城入城にあたり豊臣秀頼から支給された資金は、現在の金額で黄金6億円分、銀1億5000万円分相当であったとのことでした。
【九度山からの脱出】
信繁が九度山を脱出するエピソードについては、九度山を管轄する和歌山藩主・浅野家は村人たちに厳しく監視するように言い渡していたが、ある日、信繁が酒宴を催し、呼び寄せた村人たちが酔って寝込んだすきに脱出したという記録を紹介。これについて北川さんは「九度山の人々と幸村が友好を深めていたなら、「酔いつぶれたすきに逃げられた」と言えば、浅野家からもとがめられることはなかったろう。こうして幸村の脱出を助けたということであるならば、あるいはこうしたことが実際にあったのかも知れない」と分析しました。
北川先生2
【真田丸築造にまつわる逸話】
脱出後、大坂城南東の総構の外側に作った真田丸について、もともとその場所には後藤基次(又兵衛)が砦を築こうと準備していたらしいこと。にもかかわらず後藤に断りなく幸村が砦を築いてしまったため、内紛が起こり、当初、大坂城内で3人衆と呼ばれた毛利勝永、長宗我部盛親、真田幸村に、後藤基次、明石掃部が加わり5人衆とすることで事態は収まったという真田丸築造にまつわる逸話も紹介されました。
【大坂の陣は「豊臣方不利」なわけではなかった】
また、一般には幸村は負けることが分かっていながら大坂の陣で豊臣方に参加して戦ったと言われるが、当時は豊臣秀頼に心服する者も多く、将来、秀頼が次の権力者になることを待望する人々が少なくなかったとの外国人宣教師等の手記を紹介。その中では「大坂の城にある秀頼様は(中略)現皇帝(=家康)の死後は(中略)他日帝位につくべきのぞみあり」と記され、「もし皇帝(=家康)が自ら出陣しなかったならば、全諸侯は父(=秀吉)の偉業により秀頼に好意を寄せていたので、皇太子(=秀忠)が決して玉座につけなかったことは確実である。」と見られていたと解説。現在、私達が考える大坂の陣のイメージとは異なる当時の人々の捉え方を明らかにしました。
北川先生3
【最後まで勝利を信じていた幸村】
大坂の陣は家康にとって人生最大の危機であり、豊臣方が初めから敗れるとの考え方を当時の人々は持っていなかったらしいこと。武田信玄や織田信長と同じく個人的なカリスマで諸大名を掌握していた家康を討ち取れば、徳川軍は求心力を失うことを十分理解していたため、幸村は家康を討ち取るため本陣に突撃したこと。そのため勝利を信じて最後まで戦ったのであり、敗北必至で戦ったのではないことなど、当時の史料を読み解きながら大坂の陣の真相をお話しいただきました。
北川さんの講演は、歴史的な事実をどう評価するかによって同じ事件の見え方が全く変わってくるということを気付かせてくれました。私たちが理解している大坂の陣のイメージは、当時の人々が感じた実際の感覚とはずれていることも分かりました。真田信繁(幸村)は、家康を討ち取れば勝ち目はあると的確な判断をしていた人物であり、最後まで勝利を信じて家康に挑んだ勇将であった――そんな一面を新たに知ることができる講演会でした。