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展覧会・イベント情報

ハリー・K・シゲタ Photography -光で描く世界- 学芸員コラム



現実と幻想の狭間を見るかのような写真で人々を魅了したハリー・K・シゲタ。
彼にまつわるエピソードや作品解説、ちょっとしたお話を学芸員が7回にわたってご紹介します。
展覧会だけでは知ることのできないシゲタの世界をお楽しみください。

あ、ご挨拶が遅れました。上田市立美術館でハリー・K・シゲタを研究する、学芸員の松井宏典と申します。
以後、よろしくお願い申し上げます。

 

 


 第 5 回 BLUE ROSE

このコラムもついに5回目。折り返しになりました。
さて、本題に入る前に、展覧会を鑑賞された方から特に多く寄せられたご質問にお答えしたいと思います。
 
「“ゼラチンシルバープリント”って何ですか?」
 
目録やキャプションに書かれている聞きなれないこの言葉。
簡単に言うと白黒写真のことを指します。
少し前まで、写真といえば暗室の中でネガフィルムを光に反応する感光紙(印画紙)に焼き付けるという技法が一般的だったのですが、この“光に反応する”という仕組みに、実は臭化銀が使われているのです。
臭化銀は光に当たると黒く反応するという性質を持っており、
これをゼラチンに混ぜ込んで感光液をつくります。
この感光液を紙に塗ることで、光に反応して白黒写真ができる印画紙になるという仕組みです。
ゼラチンと銀を使って出来上がるからゼラチンシルバープリント、というわけですね。
(本当は、このほかにヨウ化銀などの化合物を混ぜたり様々な工程がありますが、ここでは割愛します。気になる方は、ぜひ調べてみてくださいね。)
 
それでは、コラムに移りましょう。
今回は広告写真をひとつご紹介します。

 

《Blue Rose》1925年頃

 
本作は、シゲタが初めて手掛けた広告用のコラージュ写真といわれています。
大小さまざまなシャボン玉の背景、空を飛ぶ大きな石鹸の上に妖精のような裸婦が乗っている、
というとてもファンタジー色の強い作品です。
 
「ブルーローズ」という石鹸の広告写真で、とある広告代理店から制作の依頼を受けたものなのですが、
こんなエピソードが残っています。
ブルーローズ石鹸を売り出す広告制作していたこの代理店。
しかし、ある懸案事項がありました。それは価格。この石鹸、実は1個1ドルもしたのです。
この作品がつくられたのは1920年代。当時は現代の10~15倍くらいの貨幣価値があったそうですから、
少なく見積もっても1,000円以上。なかなかの高級石鹸だったのです。
これを売るには相当インパクトのある広告にしないと……。
コピーライターたちが頭を悩ませている中、彼らの目に留まったのが、なんとシゲタの写真でした。
 
それは、別の依頼主から注文を受けてシゲタが撮影したビルの写真で、
レンズと光の屈折を利用して半円を描くようにビル群を収めたものだったといわれています。
そして、偶然にもそのビルの中にこの代理店が入っていたそうで、
強くひきつけられた彼らは「シゲタに依頼しよう!」となったのだそうです。
 
ちょっと出来すぎな気もしますが、このころのシゲタはシカゴ大手の写真スタジオ「モフェット」で
商業写真部門を任されるまでに出世しており、乗りに乗っている時期。
そういった幸運もあったのかもしれません。
 
本作において、シゲタは石鹸の写真を撮るのではなく、
石鹸からイメージを膨らませて物語性を持たせるというデザインを施した写真をつくっています。
この発想に、当時のアメリカの広告写真業界は驚愕したという記録が残されています。
 
写真画像を自由自在に操り、芸術写真と商業写真を融合させ独自の世界観でその名をとどろかせたシゲタ。
本作は、その片鱗が見える作品といえるのではないでしょうか。
 
では、今回はこの辺で。第6回もお楽しみに!
 
 

 第 1 回 ハリー・K・シゲタ

今から約120年前、西洋文明にあこがれ、わずか15歳でたった一人アメリカへと渡った少年がいました。

彼の名は、ハリー・K・シゲタ。

第二次世界大戦という大きな時代の流れに翻弄されながらも、

数々の広告写真でアメリカ社会を魅了し国際的に成功を収めた商業写真家です。

4月20日(土)から開催の上田市立美術館コレクション展「ハリー・K・シゲタ Photography-光で描く世界」は、

彼の芸術表現の原点を探り、「写真を絵画のように自由自在に表現する」ことを目指した

彼の写真表現の追求の軌跡をたどります。

 

ということで、第1回目のコラムでは、ハリー・K・シゲタを軽くおさらいしてみたいと思います。

シゲタは、1887(明治20)年、上田市原町に生まれました。日本名は重田欣二。

15歳で単身渡米し、アメリカになじもうとハリー・K(キンジ)と名を変えます。

カメラとの出会いはミネソタの美術学校時代のこと。

美術を学ぶ中でデッサンに利用していたカメラに興味を持ち写真家へと転身しました。

その後、写真の修整技術を身につけ、商業写真家となり、1930年、シカゴに「シゲタ・ライトスタジオ」を設立。

高い技術と洗練されたデザインが話題を呼び、アメリカ有数の企業へと成長を遂げました。

また、後継者への育成にも尽力しました。

講演会や研修会を通じて、自らの写真術や技法を余すところなく教えるその姿が多くの人々に支持されて、

1949年、アメリカ写真家協会名誉会員の称号を授与されています…、

と、彼の人生はとても劇的で、今回のコラムですべてを紹介するには書ききれなくなってしまいました。

 

そこで、もっとシゲタについて知りたいという方のために、

サントミューゼの機関誌「SANPOMYUZE(サンポミューゼ)」やウェブ版「美術館探訪」、

そしてマンガでエピソードをたどる「シゲタ君の4コマミュージアム」などがありますので、ぜひご覧ください。

 

◆機関誌『SANPOMYUZE vol.2』美術館探訪

◆ウェブ版「美術館探訪」

シゲタ君の4コマミュージアム

 

また、2月には振付家・ダンサーの鈴木ユキオさんがシゲタをテーマにコンテンポラリーダンス公演を開催。

こちらも大勢のお客様にご覧いただきました。

 

◆【レポート】鈴木ユキオコンテンポラリーダンス公演『Roomer』オープンスタジオ

◆【レポート】鈴木ユキオコンテンポラリーダンス公演『Roomer』

◆『Roomer』ダイジェスト映像

 

もちろん、展覧会ではシゲタの作品とともに彼の軌跡をご紹介しています。
ぜひご来場ください!

 

◆ハリー・K・シゲタ Photography -光で描く世界-

2019年4月20日(土)~6月2日(日)

 

《セルフポートレート》1940年

 

 

 第 2 回 作品紹介 《 ドミノパイ 》

いよいよゴールデンウィークがやってきました。今年はなんと10連休。

遠くへお出かけされる方、近くで楽しまれる方、おうちでのんびりされる方、お仕事の方など、過ごし方はさまざまでしょうか。

当館は連休中ずっと開館しておりますので、ぜひぜひお出かけください。

さて、「ハリー・K・シゲタ Photography -光で描く世界-」のコラム第2回目、始めたいと思います。

今回は展覧会場にある作品のひとつをご紹介しましょう。

《ドミノパイ》1928年

左上から強烈な光が差し、右下に向かって長く伸びる影。

規則的に並べられたドミノが、美しくもどこかコミカルなイメージを喚起させます。

《ドミノパイ》と名付けられた本作は、世界一の百貨店として知られたシカゴのデパート「マーシャルフィールド」のゲーム部門から発注を受けて制作された写真とされています。

実はこの作品、制作の裏ではかなりの苦労があったとか。

ドミノを弧を描くように並べて光で演出する、というところまではスムーズにいったそうなのですが、いざ背後から光をあってみるとドミノの表面がなんと真っ暗に。

これでは商品の紹介にならないと反対側から光を当てると、今度は影が消えてしまって面白くない。

ライトの調子や位置を何度も調整して試してみたそうですが、どうにもこうにも決まらなかったそうです。

ではどうしたのか。シゲタが最後にひらめいた方法、それは光に向かって鏡を置くこと。

鏡に光が反射することで、強すぎず弱すぎず、ちょうどきらめくような光がドミノの表面にあたり、完璧な演出ができたのだそうです。

なお、本作は広告写真としてのほか、彼の個展では必ずと言ってよいほど出品されたシゲタの代表作の一つとしても知られています。

ところで、シゲタは休みの日やプライベートではほとんどテレビを見なかったそうです。

なぜかというと、CMで自分の写真や他社の商業写真を見てしまうので休んでいる気がしないんだとか。

なので、もっぱらラジオや音楽を聴いていたそうです。

仕事では、常に写真で頭をいっぱいにしていたシゲタですが、プライベートではしっかりとオン・オフを切り替えていたようですね。

 

 

 

 第 3 回 フォトカリカチュア

いよいよ新しい時代の幕が上がりました。新元号には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、

という意味が込められているそうですが、どんな時代になっていくのでしょうか。

希望に満ちた穏やかな時代になることを願いたいですね。

 

さて、今回は展示室の奥でひときわ異彩を放つ3つの作品をご紹介しましょう。

 

≪ヒトラー≫1940年

 

≪ルーズヴェルト≫1940年代

 

≪THE MAN OF THE HOURE≫1940年代

 

タマゴに描かれた細い目と口髭、特徴あるアゴの輪郭線とくわえられたパイプ、そして丸い眼鏡にモジャモジャの眉毛。

一目で、この写真が何を表しているか察しがつくのではないでしょうか。

そう、いずれも第二次世界大戦の各国の指導者を皮肉った「フォトカリカチュア(風刺写真)」です。

≪ヒトラー≫、≪ルーズヴェルト≫、≪THE MAN OF THE HOURE≫と名付けられたそれぞれの作品。

非常によく特徴を捉えていて、ユニークな仕上がりを見せています。

 

制作のきっかけとなったのは、第二次世界大戦開戦の記事を受け取ったことでした。

記事を読むなり、シゲタはおもむろにキッチンから卵を取り出し、そこに眉と髭を描き上げ「ヒトラーだ!」と一言。

そこから面白くなってスタッフといくつもの作品をつくっていったんだそうです。

中でもお気に入りが≪ルーズヴェルト≫。知り合いの歯医者に入れ歯を借りてまでつくったこの写真、

なんとルーズヴェルト大統領本人に贈ったんだとか。

まさに怖いもの知らずですね。後日、大統領の私設秘書官から届いた手紙には、

「似顔絵をつくってくれて、大統領はとても感謝しています。」との返事が。

皮肉たっぷりに感じるのは気のせいでしょうか。

 

この一連の作品についてシゲタは、「あの頃、みんなの神経が非常にとがっていて、だれもかれもが、あまりにも真剣で、困惑に満ちた顔をしていた。

そこで私は、一つ人々をくすぐり笑わせてやろうと思いついて、これらの作品をつくったのである。」と語っています。

陰鬱とした空気を紛らわし、人々を少しでも笑わせて心を和らげようとしたシゲタ。

しかし、この後に起こる日米開戦によって彼の人生は一変してしまうのです。そのお話は、次回のコラムでご紹介しましょう。

 

あ、そうそう、5月12日(日)25日(土)には、ギャラリートークがあります。

作品を前に、制作秘話などもご紹介しますので、こちらもぜひお越しください。

 

 

 第 4 回 シゲタと日米開戦

異例の10連休となったゴールデンウィークもあっという間に明けてしまいましたね。
久しぶりのお仕事だった方、振替のお休みを取られた方、はたまたずっと働き詰めの方など、
今週はどのような1週間だったでしょうか。
巷では5月病に注意、などと言われていますが、オンとオフをしっかりと切り分けていきたいですね。
さて、今回は作品ではなく、彼の言葉をご紹介しましょう。
“I think it has been given to me to serve through my camera.”

(私の使命はカメラによって貢献すること)

 

1950年、地方紙のインタビューで、アメリカで急速にカメラが普及していることを受けて彼が言った一言です。

後継者の育成に尽力したシゲタらしい言葉ですが、

この言葉の背景には、彼の人生を左右する大きな出来事が秘められています。それは日米の開戦。

1930年にシゲタライトスタジオを設立して以降、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げ、順風満帆な日々を送っていたシゲタ。

しかし、その日々は突如として一変します。

1941年、太平洋戦争の勃発。
真珠湾攻撃の報道を聞いて、シゲタは「日本はなんて馬鹿なことをしたんだ!」と机をたたいて叫んだそうです。

日本人は敵国人となり、シゲタが経営するスタジオは米国政府によって口座を凍結され事実上の業務停止状態に。

やむを得ず、シゲタはスタジオの所有権をスタッフに譲り渡し写真業務から離れるという苦渋の決断をします。

これによりスタジオは経営再開にこぎつけひと安心かと思いきや、今度は日本人や日系人に対して強制収容を開始。

収容所送りこそ免れたものの、シゲタは自宅に軟禁状態となってしまいます。

なんと、カメラに触ることさえも許させなかったそうです。

 

そんなシゲタに対して、各地の取引先企業は相次いで励ましの手紙を送ります。

また、スタジオのスタッフをはじめとする多くのカメラ仲間たちはシゲタの拘束を解くよう嘆願活動を展開しました。

シゲタは敵となる人間ではない、彼がいなければ商業写真事業は成り立たない―。

そんな訴えはついに司法を動かし、戦時中にもかかわらずシゲタは制限付きながら再び広告写真の仕事に就くことが許されたのです。

 

シゲタを助けようと、ここまで多くの人々が動いた理由。

それは、彼の技術力もさることながら、それ以上にシゲタの人柄が強く影響したといわれています。

アメリカで生きる日本人として逆境のほうが多かったであろうシゲタ。

しかし、誰に対しても紳士的にふるまい、奢ることも腹を立てることも悪口を言うことも一切なく、

分け隔てなく接するその姿を見てきた仲間たちやビジネスパートナーにとって、

戦争という理不尽な出来事によって翻弄される彼の姿を黙ってみていることはできなかったのでしょう。

 

多くの人々の願いによってふたたび活躍の場を得たシゲタ。

自分を受け入れてくれたアメリカ社会に対して何かできることはないのか。

シゲタの出した答えこそが、冒頭の言葉なのです。

 

この言葉、実は展示室の最後にあります。

作品で彼の人生をたどりつつ、最後にその余韻にも浸っていただければ幸いです。

 

カメラ仲間とのパーティー


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