サントミューゼ(上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館) おかげさまでサントミューゼは10周年

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Special Interview いのうえひでのり×津村 卓 インタビュー

Special Interview いのうえひでのり×津村 卓 インタビュー

おもしろいものがある場所が小劇場だった

津村 劇団☆新感線としては今年36年目になりました。いのうえさんが演劇を始めたきっかけを教えてください。

いのうえ もともと映画とか漫画が好きで、高校生のときには映研(映画研究部)に入ろうと思っていたんですけど、高校になくて。それで似ているんじゃないかと思って演劇部に入ったら、逆に演劇のほうがおもしろくなり始めたっていう。

津村 演劇の原体験はなんですか?

いのうえ おそらく高校生で演劇に興味を持ち始めてから積極的に観るようになったと思うんです。

津村 多分そのころは「劇団テアトルハカタ」とかね。

いのうえ ですね。でも当時は観ていないですね。

津村 そうすると大学生になってからの方が演劇を観るように?

いのうえ 本格的にやろうと一生懸命観るようになったのは、そのころからですよね。でも高校生の時に、文学座の江守徹さんの「ハムレット」とかを観ていたので、やはり興味は持ち始めていたんでしょうね。あと劇団四季とか、今では考えられないようなキャスティングでした。加賀丈史さんがトニー役で、ベルナルド役を市村正親さんだったり。

津村 それを福岡で観てるんや!? すごいねぇ。

いのうえ でも劇団四季が、ミュージカル路線になる前でしたよ。

津村 もともと劇団四季は浅利慶太さんたちが始めた演劇集団でしたよね。

いのうえ そうですね、すごくとんがっていた。

津村 それが後にミュージカル路線になってね。
つかさんとの出会いも一つの原体験になると思うんだけど、それによって今の新感線がある思うんですけど、劇団を作ったきっかけは何だったんですか?

いのうえひでのり氏
いのうえひでのり氏

いのうえ 当時、大阪の小劇場ブームというのは、イコールつかこうへいブームだったんです。つかさんのお芝居はおもしろくて、笑えるというのが大きかったし、情に訴えるっていうね。分かりやすいから大阪の人たちがはまったんでしょうね。かといって東京と違って、つかさんの公演は年1〜2回ほどしかやらない。

津村 そうすると、大阪で観たのかな?

いのうえ 初めて観たのはそうです。だけど高校のころ、テレビで「若い広場」は観ました。ダイジェスト版で「戦争で死ねなかったお父さんのために」が放送されたんです。それを観たとき、「こういうことをやって良いんだ。これ、お芝居なんだ」と思って、演劇に対する印象を覆されるような出来事でしたね。さすがに福岡まではつかさんの公演は来なかったので、大学に行ったら観に行ってみようと。それで初めて観たのが、「いつも心に太陽を」で、場所は大津のホールですね。
あそこで観たのが初めてです

津村 当時大阪でプレイガイドジャーナルがつかさんを呼んで、入りきれないほどの人が来て、ぎゅうぎゅうの中で観たり。

いのうえ チケットを取るのが大変でね。

津村 東京はもっと大変な状況だっただろうと。
一方で、サントミューゼのこけら落としで「真田風雲録」を演出してくれた内藤裕敬という大阪芸術大学の同級生がいますが(笑)、彼は唐十郎さんの芝居を観て志しました。

いのうえ そうですね。

津村 だから、いのうえさんや内藤さんが出てきたときには、つかこうへいと唐十郎という感じでね。その後新感線は、ずっとつかこうへい作品をやっていたんですよね?

いのうえ 実際は80年から3〜4年くらいですかね。

津村 小劇場のオレンジルームで、つかの作品をやるものすごいうまい劇団があると言われてね。

いのうえ だって俺、プレイガイドジャーナルのところに宣伝に行きましたもん。当時、つかさんをやっている劇団っていろいろあったじゃないですか。そんなのを観ていて、「いや、うちの方が絶対おもしろい!」というある種の怒りにも似たようなエネルギーで、オレンジルームの中島さんのところとプレイガイドジャーナルにハッタリをしに行ったんですよ。

津村 そんな噂を聞いていて、初めて「熱海殺人事件」を観たらびっくりするくらいおもしろくて! その時はまだ、いのうえさんは俳優をやっていましたね。そこから大阪で、ものすごい人気を得ていきました。

いのうえ そうですね。それを自分たちの人気だと勘違いしてね(笑)。それは、つかさんの人気だったという。

津村 そして最後に「グッバイ—ミスターつかこうへい!!」で3本立てをやって。

いのうえ そう、3本立てのね。あの時は3000人くらいお客さんが来ましたね。当時は1000人を超えるとすごい!と言われていましたからね。

津村 当時の大阪の劇団が1000人超える集客ってすごいことで、それが大きな社会現象になりました。でも、次どうすんねん!という感じでね。

いのうえ その次にオリジナル作品で公演をしたら、600人になりましたから(笑)。

津村 オリジナルの一発目って何でしたっけ?

いのうえ 「スター・ボーズ」ですね。でも、それは新感線名義ではないんですよ。当時のスポンサーに対して、「同じ劇団を、なんで2回やるんだ」みたいな話になるから、名前を変えてやっていました。その時にはお客さんが入っていたので、オリジナルでも行けるかなと思ったら、つかさんをやめた途端に減りました。

津村 (スタッフに向かって)タイトルがおもしろいでしょ? 「スター・ボーズ」。

一同 はい(笑)。

いのうえ 「スター・ボーズ ジェダイ屋の女房」という。これ、元々ジェダイが時代劇から来ているので。当たり前なんですけどね。

津村 そうして、オリジナル作品を創っていくようになって、東京に進出。

いのうえ そうですね。そこから、まだだいぶあるんですけどね。

津村 南河内万歳一座とか、劇団そとばこまちなど関西で活躍していた劇団よりも東京進出が遅れた。それに理由はあるの? 東京へ行くのに、気持ちがものすごく大変だったと聞いたことあるんだけど。

津村 卓 館長
津村 卓 館長

いのうえ 今だったら色んな劇団が、(東京~大阪)を頻繁に行き来しますけど、当時は大阪の劇団が東京に行くのは、遣唐使のようなものでしたからね。行って失敗したら帰ってこられないみたいな。そんな時代でしたからね。

——そのころ、東京の演劇シーンは大阪と何か違いはあったんですか?

いのうえ やっぱり、東京の演劇シーンはもっと本格的だった。というか、ちゃんと演劇というベースがあった。大阪の演劇ブームっていうのはつかこうへいのコピーだったり、所詮は学生劇団だったわけですよ。

津村 まだ学生劇団の域を出ていない感じだったけれど。

いのうえ もちろん他にすごい劇団はあったんですよ。だけど学生劇団のようなものがブームになっていた。

津村 逆にそちらのほうがお客様を集めていた。もちろんプロの劇団はあったけど。

いのうえ そうですね。いわゆる大阪の学生演劇ブームみたいなものが盛り上がっていた。でも、今でも活躍しているのはそこにいた人たちばかりだったりしますから。それなりに力はあった人たちだったんだと思いますね。たまたま集結していた。

津村 東京も大阪も、1980年後半にすごい才能がある人たちが集まっていたよね。

いのうえ 今40代後半から50代半ばくらいの人たちですよね。

津村 もう少し上の世代で、野田秀樹さんとか天才がいて。ちょっと間を置いて、また天才が生まれたという感じでしょうね。あとは社会自体がすごい盛り上がったっていう…

いのうえ バブルだったのもあって。

津村 今の若い人たちもおもしろいんだけど、あのころのムーブメントは感じない。時代的にかわいそうなんだけれど。

いのうえ そのころ、おもしろいものを考える人が小劇場でお芝居をやっていた。その後お笑いブームがあったり、ゲームだったりって変わっていった。

津村 一時期は映画だったりね。ちょっと後の世代になると、「いかすバンド天国」みたいに、音楽にぐっと流れた時代もあって。だから演劇とか音楽とか関係なく、天才というのがいて、その天才がどのジャンルに流れるか。それが時代になるんちゃうかなと。80年代という時代は、演劇だった。

いのうえ 割と演劇をおもしろがる人がいたんじゃないかなと思いますね。

津村 その後、「いのうえ歌舞伎」をやって。で、時代劇をやって。

いのうえ そうですね。今でこそ時代劇を普通にやっている小劇場はいっぱいありますけど、あのころはまず無かったんです。それは間違いなく、そう思います。

基本的な演出は変わっていないことに自分で気が付いた

津村 動員的に苦しい時代があったけど、そこから時代劇をやって。

いのうえ はい。「いのうえ歌舞伎」をやって、それぐらいからお客さんが入り始めたんですよね。

津村 そこからはお客様が倍々で。ある意味恐ろしい現象が起こって。「星の忍者」やって、すごく沸き上がっていった。東京の人たちも観たことがないものだったからね。多くの人が、新感線を待っていたからね。
お芝居ってなんでもやっていいんだよねという。どこか「お芝居を作ろう」みたいに東京がなっていたときに、新感線の演劇を観て、もう1回お芝居をやってみようという演劇人もいた。

いのうえ 基本はエンターテイメントで、おもしろくてなんぼといったお芝居なので、「演劇をやるんだ!」みたいなスタンスではやっていないですからね。

津村 そこで日本で一番お客様が来る劇団に……(笑)。

いのうえ いやいや、何を言っているんですか(笑)。

津村 だって10万人のお客様が入るって。

いのうえ びっくりしましたよ。そんなに入るんだと。時代もあると思いますけど。だって、劇団四季以外でそんな数字って、ね。

津村 こうやって変化したことに対して、どのように受け止めています?

いのうえ そんなに変わっていないんですよ。「阿修羅城の瞳」を新橋演舞場でやった時に、実はオレンジルームでやったものと基本的な演出は変わっていないことに自分で気がついたんです。やっぱり人間って、そんなに変わらないんだなと。そのころから頭の中には、演舞場みたいな商業演劇の小屋がどこかにあったんでしょうね。だから「スサノオ(〜武流転生)」の時も青山円形劇場なのに頭の中は武道館のようになっていましたから。だから劇場(コヤ)入りした時に、せまっ!となった。(キャパ300の)円形劇場ですから(笑)。考えたら分かるやろ!って。ねぇ。

一同 笑

いのうえ どうかしていましたよね。でも、そういうのがエネルギーになっていた。

津村 「スサノオ—」は円形劇場の狭さという部分もあるけれど、あのこだわりに「恐るべし!いのうえ」と思ったのが、円形劇場なのに舞台のボタンを押すと、あの円形が上がってくるにも関わらず円形の舞台をわざわざ造ったのね。

いのうえ 照明を下に仕込まないと出来ないので。。

津村 そのために舞台のボタンを押すとウィーンと出て来るものと同じサイズの舞台を造るっていう。あの時は、「死んでも新感線の制作だけはしたくない」って(笑)。この男はどこまでこだわりがあるのかと思いました。演劇へのこだわりがすごいよね。

いのうえ あのころは、とにかくお客さんをおどろかせようということに注力していましたから。特に最初は東京に行ってすぐだから、まずはインパクトだと。分かりやすくキャッチフレーズを付けてね。だから、いかにもメタル風な衣装を着て、とかビジュアルからお客さんをドッキリさせるとかやっていました。

津村 新宿の「シアタートップス」でやった東京公演の時、なんで照明のトラックが走り回っているんやろうと。大体の機材はあるでしょ? 当時の照明スタッフが「津村さん、電源車を借りたいんですけど」と聞いてきたので、「意味がわからん」と。トップスの電源だけで出来ないのかって聞いたら、「いや、無理かもしれません」と。借りたら高いし、トップスに置くところがないぞと話したことがあります。

いのうえ そうですね。あの周辺で一度、電源が落ちたことがあります。

津村 新感線の照明で?

いのうえ そう。リハーサルしていたら、あれ?って。

一同 笑

津村 そのころから驚かす工夫をしていたんですね。でも、今でもそうでしょ?

いのうえ どこかでそういう気持ちはありますよね。「誰もやっていない」「初めて」という言葉に弱いですからね(笑)。

津村 演出家からこの機材がいると言われて泣いていた制作の人、2人くらい知っていますね(笑)。

これだけ才能がある2人だから成功するのは分かっていた

——いのうえさんと津村館長のお付き合いは、どのくらいになりますか?

津村 僕が初めて新感線を観に行ったころは、まだ知り合いではなかった。扇町ミュージアムスクエアからの付き合いだから31年。

いのうえ そこが工事中の時からですね。

津村 扇町ミュージアムスクエアを企画して、倉庫を改装した劇場を造った。その上に部屋があって、劇団☆新感線と南河内万歳一座の稽古場を造った。当時、彼らは大阪で勢いがあってやっていたんだけど、でも稽古場ジプシーだった。

いのうえ 稽古場を持ってるってなかなか無いですよ。

津村 一つの劇団が稽古場をきちんとレギュラーで持つということがなかなか無かった。彼らは稽古場ジプシーだったので、ならばと。

いのうえ 当時、他の劇団から「なんで、あいつらなんや」っていう声もあったみたいですけど(笑)。

津村 それでも、「ここは劇団☆新感線と南河内万歳一座やろ」と押し通した(笑)。
そんなところから付き合いは始まったね。いのうえ、内藤それぞれ同時に付き合い始めたんです。これだけ才能がある2人だから成功するのは分かっていたから、5年くらいで新しい劇団と入れ替わってもらおうと思っていたんだけど、結局最後までおったな(笑)。

いのうえ なかなかのぬるま湯でね。出にくかった(笑)。

津村 でも途中から新感線は、ほとんど東京が主軸になっていったよね。だから荷物が置いてあるくらいだった。

いのうえ そうですね。

津村 万歳のほうが部屋が広かったからそこそこ練習できたけれど、新感線は狭かったよね。だから、そこでダンスの練習だけするとかね。本格的な稽古は、そのビルの屋上を使っていたり。

——大阪時代に小劇場で活動されていた感じが、会場が大きくなったり、お客様が増えてもいい意味で楽しく、同じことをしてらっしゃる感じですね。

いのうえ そうですね。規模は変わっても、基本は変わらないですよね。聖飢魔Ⅱが出てきた時は、すでに音楽雑誌の「ロッキンf」とかで騒がれていた時で。それこそ、地獄がどうのこうの言ってね(笑)。そういう部分に、「これは同じ血を感じるぞ!」とライブを観に行ったんです。そしたら、これはまさに俺らがやりたいことと共通していると思って、「一緒に何かやりませんか?」と声をかけた翌年あたりにブレイクしちゃった。「蝋人形の館」がヒットして、そこからしばらく疎遠だったけれど、後にデー(デーモン閣下)さんが芝居を始められて。それで一緒にやったんです。だから考えていることが変わらないっていうか、未だに付き合いはありますよね。

——テレビも音楽も、演劇も、いわゆる「すごい人」が多かったですね。出来上がるものがすごい時代でしたし。

いのうえ 未だにがんばっている人、多いもんね。

津村 若いやつにとっては、損だよね。

いのうえ 僕らより上の世代がいろいろ問題があったりするのを、見ていた世代なんですよ。だから自然と学ぶことが出来た。

津村 やはり10年周期があると思うんですよ。なんでも誰かに影響を受けて、その後に出てくるから、才能ってやはり観客席の中からしか出てこないと僕は思っているから。すごい公演を観て、「自分もやりたい」と思って、努力して、で、才能がでてくるようになるころには10年くらい経っている。で、失敗もたくさん観てきてるから、成功するっていう(笑)。

いのうえ 今やっている若手の芝居とは、だいぶ違いましたからね。あきらかに新感線の流れみたいなものは、2.5次元みたいなところに影響が行っていると思います。

津村 やりたいという人はいっぱいいるんだけど、新感線のような舞台はなかなかマネできない。

いのうえ ジャンルのようになっているというか。同じようなことやったらきっとパクリだと言われるだろうし、難しいでしょうね。
僕らが始めたころは、舞台で漫画とかアニメーションのようなものをやろうという考えからスタートしていますから。逆に今はそういうのが溢れているので、僕らはオーソドックスなものをやろうと変わってきています。

津村 そのころ、そんなムーブメントは無かったから。だからみんな「最初の人」になった。
それで新感線の場合は、「劇団☆新感線」というジャンルを作った。

いのうえ そう思います。それこそロックに合わせてチャンバラをするとか、サンプリングを使うとか。もしかしたら同時多発的に他でもやっていたかもしれないけれど、名前がある程度認知されている劇団の中で、そういうのを先に使い始めたのは、僕らが最初でしたね。

津村 そういう意味でも、ジャンルを作ったんだなと思います。

いのうえ サンプリングとかムービングを多用するとか。ああいうのは、元々コンサートで使っていましたからね。

津村 今でこそスピーカーは小さくなったけれど、昔はどーんとしていたからね。芝居をやるのに、なんで舞台の上下(かみしも)にスピーカーを山積みしてんねんって。あのころのお客様も、半分はコンサートに来ているという感覚でいたよね。

いのうえ それを特化していけば、音モノになるし。あえてチャンバラに特化した活劇を、「いのうえ歌舞伎」と、言うことにしました。

——そんな劇団☆新感線に上田へ来ていただきますが、盛り上がっているんです。「新感線が上田」って。

いのうえ なんでやねん!と俺も思いますよ(笑)。

津村 僕も思っています(笑)。

一同 笑

——ありがとうございました。

(Text=佐藤博樹・くぼたかおり Photo=齋梧伸一郎)

いのうえひでのり Profile

演出家・劇作家。劇団☆新感線主宰。80年、劇団☆新感線を立ち上げ。独特の個性が“新感線イズム”として確立し、“劇団☆新感線”はエンターテインメントの中のジャンルの一つとして語られている。
劇団☆新感線オフィシャルサイト:http://www.vi-shinkansen.co.jp/

公演情報

劇団☆新感線プレビュー公演

2016 年劇団☆新感線夏秋興行 SHINKANSEN☆RX
『Vamp Bamboo Burn ~ヴァン!バン!バーン!~』

作・宮藤官九郎 演出・いのうえひでのり

【出演】

生田斗真
小池栄子、中村倫也、神山智洋(ジャニーズWEST)
橋本じゅん、高田聖子、粟根まこと
篠井英介 ほか

日時:2016年8月5日(金) 開演12:00 7日(日) 開演12:00 / 開演17:30
会場:大ホール
公式サイト:http://www.v-b-b.jp