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【レポート】「書を捨てよ町へ出よう」-上田公演-

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寺山修司没後35年記念
「書を捨てよ町へ出よう」ツアー ー上田公演ー
作:寺山修司
上演台本・演出:藤田貴大(マームとジプシー)

2018年10月27日(土)18:00開演 / 28日(日)14:00開演

at 小ホール

 

 

 

寺山修司による1971年公開の長編映画「書を捨てよ町へ出よう」。実験的な手法を多用しながら若者の鬱屈した思いを描いて強烈な印象を残した同作を2015年、劇団「マームとジプシー」を主宰する藤田貴大さんが演出し舞台化しています。

寺山修司没後35年を迎えた今年、この舞台が再演され、東京公演に続いて上田で幕を開けました。

 

 

無数の蛍光灯の白い光に浮かび上がる舞台。金属製の足場板に埋め尽くされた無機質な世界に、ミナ ペルホネンの衣装を身にまとった現代然とした若者たちが現れます。

 

 

「暗闇の中でそうやって腰かけて待っていたって、何にも始まらないよ」
「今ここにいる俺たちだって、あんたたちとおんなじように待ちくたびれている」
「誰も俺の名前を知らない、新聞に載ったこともない」
「俺の名前は、」
「私の名前は、」

 

映画「書を捨てよ町へ出よう」の冒頭と同じセリフが暗闇の中の人々、つまり客席の観客に投げかけられます。

 

 

 

映画の切迫感とは違う淡々とした調子でありながらも、同じように聴くものの心に突き刺さる言葉。

SNS全盛で誰もが主役になれる時代、けれど結局のところはその他大勢にすぎないという現実を思い知らせるように。

主人公の「私」は18歳。映画と同じように少し問題のある家族と暮らしながら鬱屈とした思いを抱え、金持ちで美人の恋人がいる友人への憧れ、性への焦燥といったさまざまを抱きながら、人力飛行機で不満からの脱出を試みます。

 

進行する芝居の中に挿入されるストーリーとは別軸の映像やコント、ファッションショーといったさまざまな表現に感情を多方向に揺さぶられ、時折「本当に演劇を観ているのだろうか?」と錯覚に陥るのは新鮮な感覚。

自分(主人公)を取り巻く世界について一見無尽蔵なほどに語られる、原作や映画の印象とも重なります。

 

 

映像には芸人の又吉直樹さんと歌人の穂村弘さんが登場し、さらに又吉さんの書き下ろしコントを役者たちが唐突に舞台上で演じ始めたり、ファッションショーが始まったり。チャンネルをザッピングしながら同時にネットサーフィンもしているような状況は、情報にあふれた現代の私たちの得意分野なのかもしれないし、一方で、寺山修司が当時描いた猥雑なストリートの若者群像と重なるような気もするのでした。

 

 

 

こうした演劇以外の表現とのコラボレーションは藤田さんが以前から試みていたこと。そして劇作家だけでなく詩人や歌人、評論家としての顔を持ち、その作風からコラージュの名手と呼ばれた寺山修司にも重なる部分です。

幾重にも折り重なるモチーフから何を感じ、どう解釈するのかは、観ている私たちに委ねられています。

 

コラボレーションでも印象的だったのは、舞台上に組まれたドラムセットでライブで演奏される山本達久さんの音楽。

劇のBGMとしてだけでなくセリフと呼吸を合わせて刻まれる部分もあり、淡々とした長セリフがラップのように聞こえる快感も。

一定のリズムと無機質な音世界が、かえってセリフが持つ力強さを際立たせるように感じられました。

 

 

 

この作品には、観客に向けて解説するいわばナレーターのような人物が何度も登場します。

まるでバラエティ番組のMCのように軽快な調子で、主役の「僕」を「佐藤緋美くん」と役者の名で呼び、客席の私たちに「説明」する。

 

 

それはこれが演劇という虚構の世界であることを観客に再三自覚させるようで、映画「書を捨てよ町へ出よう」のラストシーンで「映画が終わればこの世界は白いスクリーンになって、俺たちのことは忘れてしまう」と語るシーンを思い起こさせました。

 

舞台上の「私」と、バックの映像で流れる映画の主人公の「私」のセリフが重なっていくラストシーン。

舞台やスクリーンというフレームを越えて観る者を試すかのように問いかけるその言葉は、半世紀の時を超えてなお力強く響いてきました。