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展覧会・イベント情報

平山優がおススメする特別展「真田丸」上田会場 ココが見どころ



 

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歴史学者で、2016年大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当されている平山優さんが、特別展「真田丸」上田会場の展示資料の中から、上田にまつわるお話も交えながら、見どころとなる資料を紹介してくださいます。全5回にわたっての連載です。

 

平山優

平山優

 

 

第5話 《諸国古城之図 摂津真田丸〔しょこくこじょうのず せっつさなだまる〕》   江戸時代/一鋪/縦27.5㎝ 横39.5㎝/広島市立中央図書館


s-諸国古城之図(図録)
本史料は、江戸時代に調査、記録された真田丸跡の絵図です。諸国古城之図は、江戸時代に広島藩浅野家が編纂したもので、軍学の研究に用いられたと推定されています。このうち、真田丸図については、現地におもむいて調査がなされ、その結果が絵図として残されたものであることから、現在では失われてしまった江戸時代の真田丸跡を知る貴重な手掛かりといえます。
この絵図をみると、真田丸跡の背後(北側)には、「大和道〔やまとみち〕」が走り、西の両側は「畑」、東の両側は「浅田」と記録されています。これは大坂城の惣構〔そうがまえ〕の堀跡であり、幅は200メートルにも及び、現在では長堀通りに変貌していますが、8車線の広大な道路幅は、惣構堀〔そうがまえぼり〕の偉容を今に伝えています。
部分図1(北東側部分図)
そして真田丸跡は、西、北、東は崖となっており、とりわけ東側は二段の崖になっていたことがわかります。このうち、東側の一つ目の崖上は「此辺皆畑也」と書かれた平坦地になっており、現在では宰相山〔さいしょうやま〕の地名で呼ばれている場所にあたります。真田丸跡は、それよりもさらに一段上の崖の上にあったことがはっきりわかります(この一帯の地名は「真田山」)。
さらに興味深いのは、真田丸内部に、広さ8間の浅い堀で区画された「二十間程」の大きさの小曲輪〔しょうくるわ〕があることです。このことから、真田丸は二重構造になっており、本曲輪〔ほんくるわ〕が陥落しても、ここで抵抗を続けることが可能であったと考えられます。またこの小曲輪は、惣構の堀に侵入した敵に、有効な横矢(側面射撃)をかけることもでき、極めて機能的であったと推定されます。また真田丸の正面の堀跡は、一部が埋設された様子が窺われますが、絵図成立当時でも幅24間(約43メートル)ほどの規模の堀跡が残っていたようです。きわめて大きな堀を構えた城砦であったといえましょう。
部分図2(小曲輪辺り部分図)
この絵図に描かれる遺構のうち、南側の堀跡を除き、真田丸跡内部の曲輪跡と前面の堀跡や東側の崖跡などは、現在でもその痕跡を認めることができます。しかしながら、肝心の南側の巨大な堀跡は、完全に市街地化されはっきりしません。近年、地中レーダー調査が行われ、堀跡と思われる反応があったといいます。しかしながら、真田丸の実体解明は、今後の発掘調査などの成果を待つしかありません。
なお最近、松江市から本図と同系統の真田丸絵図が発見されました。本図に見られない新情報が含まれていますので、今後、本図と松江市発見の絵図との比較検討などが必要といえましょう。
※本資料は、現在パネルにて展示しています。

 

 

第4話 《上田城出土瓦〔うえだじょうしゅつどかわら〕》 桃山時代(慶長5年〈1600〉以前)/5点 菊花文軒丸瓦:径15.0㎝ 長24.0㎝ 鬼瓦片:縦10.5㎝ 横6.5㎝ 厚6.0㎝ 鳥衾片:径16.0㎝ 鯱瓦片:長31.0㎝ 幅15.0㎝ 鯱瓦:高92.3㎝ 幅22.5㎝ 奥行28.0㎝/上田市立博物館


 

s-083_上田城出土鯱瓦(鯱・鳥衾・菊花紋軒丸瓦・鬼瓦)_上田市博★_result s-083_上田城出土瓦片・鯱瓦_上田市博★_result

 

上田城は、天正11年(1583)に徳川家康によって築城され、まもなく真田昌幸に下賜されたものです。以後、真田氏の居城となりました。この上田城は、残念なことに関ヶ原の戦いと第二次上田合戦後に、徳川軍によって徹底的に破壊され、建物はもちろんすべての堀が埋められ、姿を消してしまいます。

 

ところで、真田時代の上田城は、2回の大改修が実施されたと考えられています。最初の改修は、第一次上田合戦直後の天正13年9月、上杉景勝の援軍によって実施された「伊勢崎御普請」です。次に、小田原北条氏滅亡後の天正18年から慶長2年ごろの間に、真田昌幸自身によって実施された改修です。このうち、真田時代の上田城にとって、大きな画期となったのが、天正末から慶長初年の改修です。

 

この時、上田城は金箔瓦を載せた櫓などが整備されました。その時使用された金箔瓦が本展示資料です。金箔瓦は、織田信長が築いた安土城に初めて使用され、以後、豊臣政権下の城郭で多用されます。ところが、江戸幕府成立後の城郭では使用されなくなり、姿を消してしまうため、織豊系城郭の指標の一つとされています。

 

上田城出土の金箔瓦は、鯱〔しゃち〕瓦、鬼瓦、軒丸瓦などです。このうち鯱瓦は二種類あり、ほぼ原型を保った状態のものと、背鰭〔せびれ〕と腹部の破片です。

s-083_上田城出土瓦片・鯱瓦_上田市博★_result(鯱瓦)

 

前者は、江戸時代に発掘、保存されてきたものであり、後者は平成2年(1990)の本丸発掘調査の時に出土したものです。ともに鱗が箆〔へら〕で線刻されており、これは織豊系城郭の鯱瓦の特徴といえます。また前者には金箔の痕跡はありませんが、後者には金箔と漆が残されています。

s-背鰭_result(鯱瓦片〈背鰭部分〉)
ところが鱗にはその痕跡がないため、鯱瓦はすべてが金箔が施されていたわけではなく、背鰭、尾鰭、腹部のみだった可能性が高いです(現在、上田城櫓門で復元品が展示されています)。

 

次に注目されるのは、「菊花文軒丸瓦」です。

s-菊花紋軒丸瓦_result(菊花文軒丸瓦)

 

これは、豊臣秀吉の居城である京都伏見城の瓦と同笵(同じ型を用いて作成したもの)か、それに近いものと推定されています。真田氏は、文禄4年から慶長3年にかけて伏見城普請を命じられているので(ただし、文禄4年と慶長元年の普請は指月伏見城のもの。この城は慶長元年閏7月の大地震で倒壊し、それ以後は木幡山伏見城の普請)、この時の経験を活かし、上田城に改修を行ったのでしょう。
金箔瓦を葺くことは、豊臣政権の許可なくしては出来なかったといわれます。事実、現在金箔瓦が確認されている城郭は全国で43ヶ所(2009年のデータ)であり、そのすべてが織豊政権下の有力大名に限定されているのです。しかも、東国に限ってみると、徳川家康が支配した関東では一件も事例がなく、沼田・小諸・上田・松本・甲府・駿府・福島(越後)・会津若松には存在しており、まさに家康を取り囲むように配置されていることがわかります。
つまり、これらの城郭は、徳川氏の関東転封に伴い、秀吉系の武将が配置された直後に、近世城郭として改修がなされ、その過程で金箔瓦が葺かれたと想定できるのです。このように金箔瓦は、豊臣政権の大名配置と政治的意図を窺わせる貴重な証言者といえるでしょう。
なおこの時、上田城を除き上記の城郭には、天守台が整備され、そのほとんどに天守が造営されています。豊臣期上田城に天守があったかどうかは、議論がありますが、寛永期に成立した「上田城構之図」(上田市立上田図書館蔵)には、本丸に「御天守跡」の記述がみられることや、本展示資料であるほぼ原型を保つ鯱瓦(高さ92.3㎝)の存在から、三層四階の天守が存在した可能性が高いと考えられます。

 

 

 

 

 

 

第3話 《城下囲村図〔じょうかがこいのむらず〕》 天保14年(1843)/1鋪/縦102.0㎝ 横86.5cm/上田市立博物館

 


 

s-67_城下囲村図

 

上田の城下町は、真田昌幸・信之二代にわたって整備されました。真田氏は北国街道を原町・海野町から城の北側(外堀の役割を持つ矢出沢川の内側)へ迂回させ、塩尻方面へと繋げる整備を行いました。それに伴い、太郎山麓の八ヵ村に対し、北国街道沿いに移転を命じたと伝わります。
八ヵ村は、真田氏に従って矢出沢川の南、上田城下の北国街道沿いに移転し、城下を形成します。これを城下囲いの八ヵ村といいます。その様子を描いたのが本図です。これは天保14年(1843)8月12日に、御城地元塩尻組十二ヵ村惣代下塩尻村庄屋瀧澤半右衛門らが連署で作成したもので、かつて村人が住んでいた場所と旧道を朱書きで、天保当時の村と街道を墨書で図示したものです。
城下囲いの八ヵ村とは、常田村、房山村・山口村(房山の枝郷)、鎌原村、西脇村・新町、諏訪部村、生塚村、秋和村のことです。この絵図によると、北国街道の古道は、かつて国分寺方面から染屋台の下の縁を北上し、向原で鳥居峠に続く上州街道と合流、そのまま太郎山麓の諸村(古町、房山岸、円明寺、新屋、堂屋敷、寺川、内屋敷、六工(六九・ろっく))を経て塩尻に抜けていました。

67_城下囲村図(部分1)  (部分図1 向原から六工あたり 朱書き部分が北国街道 )
絵図にある古地名と八カ村の関係ですが、常田は常田丁、中嶋、下川原にあった村を、諏訪部は古屋敷(千曲川沿い)にあった村を、鎌原は新屋(新屋、豊原)にあった村を、西脇と新町は矢島屋敷にあった村を、生塚は堂屋敷にあった村を、秋和は六工(六九)、寺川、内屋敷、宿在家にいた村を、房山と山口村は房山岸、円明寺、古町、六工(六句)、向原、和具にあった村をそれぞれ移転させたものです。

67_城下囲村図(部分2)(部分図2 秋和、生塚、諏方部あたり)

そして移転に従った八カ村に対して真田氏は、屋敷年貢などの免除特権を与えました。なお村々は、鎮守などをそのまま故地に残し移転しており、現在でもと太郎山麓には神社などが点在。旧村があった古地名も、一部を除き、そのほとんどが現存しています。

 

 

 

第2話 《天正年間上田古図》 江戸時代後期写/1鋪/縦37.2㎝、横52.0㎝/上田市立博物館蔵


 

 

s-66_天正年間上田古図

 

上田城は、天正11年(1583)、上杉景勝に備えるため、徳川家康が真田領の尼が淵に築城し、真田昌幸を配備したものです。まもなく上田城は、徳川氏から真田氏に下賜され、その本拠地となり、同13年の第一次上田合戦の際に、上杉氏の援軍によって改修されています。つまり真田昌幸は、労せずして巨大な城を入手したことになるわけです。

ところが、真田時代の上田城と城下の様子は史料がなく、ほとんどその実態は不明なのです。本図は、失われてしまった真田時代の上田の様子を描いたとされる唯一の絵図になります。原図は、松代藩佐久間氏の所蔵になるもので、その写しと明記されており、その写本は複数残されています。

 

特徴的なのは、上田城を「屋形」(館)と記述していること、その縄張りが現在の上田城とはまったく違っていること、また「大堀」(近世の千間堀)周辺の地形が相違していることなどです。

s-66_天正年間上田古図(部分)(部分図1)

 

とりわけ外堀の島は、河川の中州の痕跡とみられ、「大堀」が矢出沢川と蛭沢〔ひるさわ〕川の流路を利用し、改修して築かれたことを示すものです。また「常田御屋敷」(現在の上田高校敷地)は、空堀だけで、水堀がめぐらされておらず、水堀の形成は真田昌幸時代より後の普請の可能性を示唆しています。このほかに、「すハべ」(諏訪部)を通る道には「しん道」(新道)の注記があり、松本方面に抜ける松本街道が真田昌幸時代に上田城外に敷設されたとあります。

 

s-66_天正年間上田古図(部分2)(部分図2)

 

さらに、真田信之時代に上田城下に移転したとされる八カ村(展示資料68参照)のうち、西脇村、鎌原村、房山村、踏入村の四カ村については、それぞれ「西脇新家」「新鎌原」「新房山」「新家」とあり、すでに移転が始まっていたことが窺えます。とりわけ、踏入村と思われるところは「新家」とだけしか注記がなく、まだ成立してまもないころであり、村名もつけられていなかった様子が窺われます。

また「上田」という地名も記されています。「上田」の地名が確実な史料に登場する初見は、文禄4年(1595)のことです。本古図の精度については、なお検討の余地がありますが、古い情報が盛り込まれていることは事実でしょう。

 

 

 

第1話 《武田軍使用長槍》 戦国時代/1本/長520.0㎝、径4.5㎝/上田市立博物館蔵


 

29_武田軍使用長槍siro300

 

今回の真田丸展に展示される資料のうち、全国でも珍しいものとして武田軍が使用した長槍があります。これは全長が約6メートル弱にも及ぶもので、武田軍が重視した「長柄鑓」〔ながえやり〕に相当します。残念なことに、穂先は後世に付け替えられたもので、旧観を失っていますが、柄の部分は当時のままと考えられます。

 

武田勝頼が配下の兵卒に指示した、長柄槍の規格は、①全長は三間、槍先は五寸にすること、②木柄〔きがら〕(木製の柄〔つか〕)か打柄〔うちえ〕にすること、③色は朱にすること、とあります。これと、この槍を比較すると、後世の補修である穂先を除けば、武田氏の指定した規格に合うことが確認できます。この槍は、樫木の強度を高め、反りなどの狂いを防ぐために、細割竹を貼り、籐で巻く千段巻きの技法が取られ、さらに赤漆で塗り固めるという、非常に凝ったつくりです。

 

29_武田軍使用長槍siro後   29_武田軍使用長槍siro前

 

長柄〔ながえ〕は、相手を刺突するためのものと思われがちですが、実は主な使用法は相手を打ちすえることでした。長柄槍は、集団で使用され、相手の槍隊の兵士を叩きのめし、隙をみて刺突するのが原則でした。この槍は、上田藩主松平家に伝来したもので、その祖、松平信一〔のぶかず〕(藤井松平氏)が天正三年(1575)5月の長篠合戦に参戦した時に、武田軍から分捕ったという戦利品です。当時、松平信一は徳川家康軍に属していましたので、その相手は武田家重臣山県昌景〔やまがたまさかげ〕であり、山県隊は「山県の赤備え」として知られる最強部隊でした。赤漆のこの槍は、山県隊の遺品の可能性があります。

 

 

 

 

 

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