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展覧会・イベント情報

見どころ・作品  生誕140年 吉田博展



 

 

コラム 週刊YOSHIDA


 

毎週、吉田博にまつわる作品や話題を、市立美術館学芸員がお伝えする「週刊YOSHIDA」の連載をスタートしました!

 

展覧会だけでは知ることができないエピソードをお伝えしていきます。

お楽しみに!

 

 コチラから↓

 

 

 

 

 

上田会場出品目録


 

生誕140年 吉田博展 上田会場 出品目録 (PDF 459KB)

 

 

 

 

 

生誕140年 吉田博展 上田会場 見どころ

 

第 1 章 不同舎の時代 (「絵の鬼」と呼ばれた不同舎での研鑽)


 

吉田博は1876(明治9)年、現在の福岡県久留米市に生まれました。ほどなく東隣の吉井町(現うきは市)に移住し、雄大な筑後川の流れと耳納連山の豊かな自然の中で、絵を描くことを好む少年に育ちます。旧制中学の図画教師に才能を見出され、その養子となり、17歳で当時、東京で名の知られた小山正太郎の画塾・不同舎に入門。周囲から「絵の鬼」と呼ばれるほどの研鑽を積み、風景画家として雄飛する力を養っていきました。画面の隅から隅まで克明に描く不同舎での修練に相当な苦労をした博でしたが、鉛筆画をはじめ、水彩・油彩を学んだ彼の描写力は、すでにこの時代に完成の域まで達しています。

 

 

《日光》 1894-99(明治27-32)年 水彩・紙 福岡市美術館 〈後期展示〉

 

 

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《雲井桜》 1899(明治32)年頃 水彩・紙 福岡県立美術館 〈後期展示〉

 

 

《雲叡深秋》 1898(明治31)年 油彩・カンバス 福岡市美術館 〈全期間展示〉

 

 

 

第 2 章 外遊の時代 (太平洋を越えた博の気概)


 

不同舎での研鑽を積む博に時代の変化が押し寄せます。フランスから帰国した黒田清輝が、明治美術会から分離し白馬会を結成、東京美術学校西洋画科の教授に就任したのです。黒田ら白馬会系のメンバーは「新派」と呼ばれ、対する博たちは「旧派」と揶揄されました。国費で留学する黒田の門下生たちを目の当たりにし、博は自力での留学に闘志を燃やします。1899(明治32)年、博は太平洋を渡りアメリカ合衆国のボストンにたどりつきました。洋画の優れた技法と日本人としての詩情豊かな表現を併せ持つ博の絵は、アメリカ人の心をとらえ、各地の個展で成功を収めます。帰国後、博は明治美術会の改革の先頭に立ち、白馬会に対抗する太平洋画会を結成しました。20代の過半を海外に過ごしたこの時期の経験は、博の画家人生に確固たる信念を形成していくことになります。

 

 

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《霧の農家》 1903(明治36)年頃 水彩・紙 福岡市美術館 〈前期展示〉

 

 

《ポンシデレオン旅館の中庭》 1906(明治39)年 水彩・紙 個人蔵 〈前期展示〉

 

 

《ヴェニスの運河》 1906(明治39)年 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

 

第 3 章 画壇の頂へ (画壇の頂点へ、そして山の頂へ)


 

二度目の外遊を終えた博は、帰国直後に行われた東京府勧業博覧会での白馬会寄りの情実審査に抗議し、太平洋画会のメンバーとともに賞の返還運動を起こします。「黒田清輝を殴った男」と噂される正義感の強い、血気盛んな様子がうかがえるエピソードです。この騒動の起こった1907(明治40)年から始まった日本初の官設展覧会「文展」に博は作品を発表。以後、連続入賞を果たし、第4回文展で34歳の博は審査員に選ばれました。大正時代に入ると、博の目は日本国内の山々へ向けられます。夏の日本アルプス登山が恒例となったのです。高山からの移ろいゆく風景の美を画布に描くことに熱中するようになります。山の案内人を伴って、来る日も来る日も山岳風景の一瞬の美を追い求める――。水彩・油彩・版画と移り変わっても、画題としての山への思い入れは変わることはありませんでした。

 

 

《月見草と浴衣の女》 1907(明治40)年頃 水彩・紙 〈後期展示〉

 

 

《雲表》 1909(明治42)年 水彩・紙 福岡県立美術館 〈前期展示〉

 

 

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《穂高山》 大正時代 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

 

第 4 章 木版画という新世界 (新境地を開いた「版」による表現)


 

関東大震災が東京を襲い、画家仲間の救済のため作品を携えてアメリカに渡った博。そこで見たのは粗末な浮世絵版画や伊東深水、川瀬巴水らの版画の人気ぶりでした。帰国後の博は矢継ぎ早に版画の連作を発表。
《米国シリーズ》《欧州シリーズ》《日本アルプス十二題》《瀬戸内海集》などを手掛けます。緻密に計算された群を抜く刷り重ねで仕上げる行程、同じ情景の刷り色を変えて描く着想、特大版画へのチャレンジなど、それまでの版画家とは一線を画する博の作品は国内外から高い評価を得ます。1986(昭和61)年に来日したダイアナ元英国皇太子妃が自ら買い求め、宮殿の執務室に飾るほど博の版画は人の心をとらえています。

 

 

《グランドキャニオン 米国シリーズ》 1925(大正14)年 木版・紙 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

《マタホルン山 欧州シリーズ》 1925(大正14)年 木版・紙 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

《光る海 瀬戸内海集》 1926(大正15)年 木版・紙 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

 

第 5 章 新たな画題を求めて (アジアに向けた眼差し)


 

世界百景を完成させることが夢だと語った吉田博。その夢を抱くには十分なインスピレーションを与えたであろうインド・東南アジアへの旅は、博に新たな境地を開きました。灼熱の大地、溢れる人の波、万年の雪を頂くヒマラヤの山々、そしてヤシの木陰に憩う人々――長男の遠志を連れた半年の強行軍から生み出された作品は、我々に同じアジアでも全く違った風土の存在があることを鮮やかに伝えます。ヒマラヤのカンチェンジュンガを朝から晩まで眺め、ヒンドゥー教の聖地・ベナレスでガンジス川の水面に沐浴する人々をスケッチし日本に戻った博は、その後、中国・朝鮮半島にも足を運びました。

 

 

《カンチェンジャンガ 印度と東南アジア》 1931(昭和6)年 木版・紙 個人蔵 〈前期展示〉

 

 

《ベナレスのガット 印度と東南アジア》 1931(昭和6)年 木版・紙 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

《上海市政府》 1939(昭和14)年 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

 

第 6 章 戦中と戦後 (反骨魂と尽きない好奇心)


 

博の晩年は、日中戦争から第二次世界大戦、そして戦後の占領期の時期に当たります。戦後、アメリカ軍が博の自宅を接収に来たとき、彼自らGHQに乗り込んで画家にとってのアトリエがいかに大切であるかを得意の英語で述べ、接収を免れたという話は、黒田清輝とやりあった博の反骨魂が晩年に至ってもなお健在であることがよくわかるエピソードです。そんな博の画家生活にも戦時下そして戦後の社会情勢が垣間見られます。戦闘機から見下ろす回転する大地、製鉄所の溶鉱炉から赤々とした鉄の流れ出すさま、いずれもこれまで目にしたことのない光景に画題としての好奇心が感じられます。最晩年は、一転してのどかで穏やかな秋の田園風景を描いています。自宅にはアメリカ軍将校などが訪れ、博は版画の刷りの実演や解説をするなど、進駐軍関係者の集まる場となりました。

 

 

《空中戦闘》 1941(昭和16)年 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

《精錬》 1943(昭和18)年 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 

《初秋》 1947(昭和22)年 油彩・カンバス 個人蔵 〈全期間展示〉

 

 


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