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作家紹介

ハリー・K・シゲタ

ハリー・K・シゲタ 私の使命はカメラによって貢献すること

20世紀の初頭に弱冠15歳で上田から単身渡米し、国際的商業写真家として活躍した人物がいました。彼の名はハリー・K・シゲタ(重田欣二)。激動の時代をカメラひとつで生き抜き、ついにはアメリカを代表する写真家の一人としてその名を連ねます。彼の人生はどのようなものだったのか。これからご紹介していきましょう。

アメリカへの飛翔

1887(明治20)年7月5日、重田欣二は上田市原町に生まれました。父・助太郎は上田銀行に勤め、母・てふは書店兼駄菓子屋を営む比較的裕福な家庭で育ったといわれています。また、両親とも熱心なクリスチャンであり、欣二自身も3歳でキリスト教の洗礼を受けています。絵を描くことが好きで、近所の文房具屋に寄っては画用紙や絵の具を買って、竹や花、鶏などをスケッチする、そんな少年時代を過ごしていました。
そんな欣二に転機が訪れたのは、1902(明治35)年、旧制上田中学校(現・長野県上田高等学校)2年生の時でした。通っていた中学校を中退し渡米を決意したのです。彼はのちにこう語っています。
「学校に通っているある日のこと、海の向こうの素晴らしい国のことを聞いた。そこでは新しい文明の奇跡がいつも起こっているのだ。私はその時そこへ行くと決め、15歳の時にアメリカへ渡った。」
もちろん、訳もなく渡米しようとしたわけではありません。この背景には上田出身者ならではの理由がありました。当時、上田は生糸の一大産地であり蚕都として栄えていました。生糸は日本の主力産業であり横浜港を通じて世界に輸出されます。反対に、西洋の文物が上田に流入しており、西洋文化に触れやすい状況だったのです。また、母のいとこがアメリカに移住していたことも大きかったようです。
日に日に募る見果てぬ世界へのあこがれに、ついに気持ちを抑えきれず欣二はアメリカへと飛び出していったのでした。

重田欣二からハリー・K・シゲタへ

両親に見送られ横浜港から出国した欣二は、すでに渡米していた叔父の柳町森太郎を頼りシアトルへと向かいます。ところがここで思わぬことが起こりました。迎えに来るはずの森太郎が日付を間違え、アラスカへと出張していたのです。言葉も通じない土地でどうすることもできず、欣二は港のコンテナに身を潜めていたといわれています。この時の様子を垣間見るエピソードがあります。豆やスープを恵んでもらい糊口をしのいでいた欣二。しかし、ある夜、どうしても空腹に耐えかねてしまいます。あたりを見渡すと窓の開いたパン屋が、そしてそこにはパンが並んでいました。罪悪感にかられつつも手を伸ばす欣二。その時、ふいに何かに腕をつかまれ、驚いた欣二は慌てて手を引っ込めたといいます。彼は、この時のことを「神の見えざる手」につかまれたと言い、恥じ入ることをしてはならない、と誓ったといわれています。
数日とも数週間ともいわれる日々を過ごし、ようやく叔父と巡り会うことができた欣二はいよいよアメリカでの生活を始めます。この時、彼はアメリカ社会になじもうとハリー・K(キンジ)・シゲタと名乗るようになります。また、英語の習得にも力を入れ、後年には“アメリカ人よりも流暢に英語を話す”とまで言われるようになっています。渡米直後のこの経験は、図らずも彼の人生に大きな影響を与えるものになりました。

カメラとの出合い。写真家の道へ

シゲタの渡米の目的は西洋美術を学ぶことでした。1903(明治36)年、画家を目指し、ミネソタのセントポール美術研究所に入学すると、デッサンや絵画、版画に工芸と幅広く美術を学んでいきます。彼がカメラと出合ったのは、この美術学校時代でした。
シゲタは描画力こそ高かったものの遅筆という欠点があり、特にデッサンでは授業内に仕上げることができないなど苦労をしていました。そんな彼を助けたのがカメラでした。「カメラでモデルを撮影すればじっくりと描くことができる」そう思いついたシゲタは、早速カメラを購入しデッサンに使用したそうです。試行錯誤を繰り返すうち、次第にカメラのほうに興味が移り、学校を卒業すると、彼は写真家としての道を歩み始めます。
1910(明治43)年、シゲタはロサンゼルスに移り肖像写真の仕事を始めます。カメラの普及によって写真文化が急速に広まったアメリカでは、自分の写真を飾ったり、見合い写真に使ったりと肖像写真の需要が高まっていました。そこで必要とされたのが顔や容姿を整える写真の修整技術です。当時はすべてが手作業ですから修整には繊細で高度な技術が求められましたが、手先が器用だったシゲタはこの修整技術を徐々に自分のものにしていきます。もちろん簡単にはいかず、時には一文無しになり公園で寝泊まりしたり、舞台でマジックショーを上演したりと苦労を重ねましたが、やがて、撮影や修整技術の腕が認められていき、ついにはハリウッドスターの宣材写真を依頼されるまでになっています。

カメラ表現の追求。芸術写真家として

ところで、シゲタはなぜカメラの魅力に取りつかれたのでしょうか。彼はこう話します。
「画家はある景色を描く場合に、何かを省略する。もし樹が気に入らない処に立っていれば、画家にはそれを別の場所に植え直す自由がある。これらのことをカメラは全然することができない。」
もともと画家を目指していたシゲタは、現実をそのまま写すカメラの“不自由さ”に不満を抱いていたのです。この不満に対する解決の糸口となったのが、写真の修整技術でした。当時、肖像写真家として写真修整を得意としていたシゲタは、この修整技術を研究し、「写真を絵画のように自由自在に描く」ことを追求するようになります。そしてそれは、写真表現そのものに転じていきます。
20世紀初頭に起こった写真を絵画のように表現する動き「ピクトリアリズム」。シゲタはこの影響を受け、1920(大正9)年頃にモデルを使った“自然の中でのヌード撮影”を試みます。“美の手本”と称された《砂丘》、一幅の掛け軸のような《暮色》などはいずれもこのころに制作されています。後年、シゲタが表現の追求の果てに制作した《干潮》は、現実とも幻想ともつかないその狭間の世界を巧みに表し、自身も最高傑作と称しています。
考え抜かれた構図やモノクロ写真ならではの濃淡表現など、画家を目指していたからこそ生み出される彼独特の芸術表現は、後の商業写真での活躍に生かされてアメリカ社会を魅了していくことになるのです。

《砂丘》

《砂丘》

《暮色》

《暮色》

《干潮》

《干潮》

商業写真家としての躍進

《ドミノ・パイ》

《ドミノ・パイ》

ロサンゼルスで活躍していたシゲタですが、サンフランシスコで起こった日系人の排斥運動によって活動に限界を感じ、新天地を求め1924(大正13)年にシカゴに移ります。ここで、シゲタはその腕を買われ、大手写真スタジオ「モフェット」の修整写真部門で雇われるとその頭角を現し、やがて商業写真部門の責任者にまで上りつめます。当時、シカゴはアメリカ第2の都市で、大量の商品が流通する商業都市として栄えており、商品を伝える広告や宣伝に対する写真の重要性が求められつつありました。シゲタはここで、世界一の百貨店として名高いシカゴの「マーシャルフィールズ」の《ドミノ・パイ》などの様々な広告写真を手掛けていきます。しかし、1929(昭和4)年の世界恐慌によってスタジオの経営が傾き、商業写真部門を買い取る形でシゲタはモフェットを離れることになります。そこで彼は、カメラ仲間であったジョージ・P・ライトと共に、1930(昭和5)年、自らのスタジオ「シゲタ・ライトスタジオ」を設立します。

商業写真の専門スタジオとして本格的に乗り出すと、現実をとらえつつも幻想的な表現を含ませる彼独特の写真に評判が高まり、瞬く間にアメリカ有数の写真スタジオに成長していきます。靴の老舗ブランドとして知られるフローシャイムの《コマーシャル用写真(Flosheim Shose)》、コダック社から新製品のテストを依頼されて制作した《トルソー》を手掛けたほか、1934(昭和9)年には、アメリカに進出していた日本の宝飾店「御木本真珠店(現・ミキモト)」の依頼を受け《真珠と人魚》を制作。裸婦、真珠、そして水族館の3枚の写真が合成された本作は御木本真珠店のカタログを飾ったほか、カメラ雑誌などでたびたびシゲタの代表作として取り上げられています。

《コマーシャル用写真(Flosheim Shose)》

《コマーシャル用写真(Flosheim Shose)》

《トルソー》

《トルソー》

《真珠と人魚》

《真珠と人魚》

複雑な光の加減を調整し、ネガを丹念に修整し、気の遠くなるような作業を繰り返しながら一枚の写真を作り上げていく。現代の技術であれば造作もないことですが、デジタルが存在しない半世紀以上前の世界では、斬新な表現として受け入れられていき、シゲタはやがてアメリカを代表する写真家の一人になっていったのです。

太平洋戦争とシゲタ

商業写真家として順風満帆な日々を送っていたシゲタに、大きな波が押し寄せます。1941(昭和16)年、太平洋戦争の勃発です。敵国人となってしまったシゲタはスタジオの所有権を手放さざるを得ず、写真業務から離れるという苦渋の決断をします。さらに、追い打ちをかけるように日本人や日系人に対して強制収容が始まり、シゲタは自宅に軟禁状態になってしまいます。
ここで動いたのがシゲタのビジネスパートナーやライトをはじめとするスタジオのスタッフ、そして多くのカメラ仲間たちでした。シゲタの拘束を解くよう嘆願活動を展開したのです。これには、シゲタの技術力もさることながら、彼の人柄が強く影響したといわれています。アメリカで生きる日本人として逆境の方が多かったであろうシゲタ。しかし、誰に対しても紳士的にふるまい、驕ることも腹を立てることも悪口を言うことも一切なく、分け隔てなく接するその姿を見てきた仲間たちやビジネスパートナーにとって、戦争という理不尽な出来事によって翻弄される彼の姿を黙ってみていることはできなかったのでしょう。シゲタは敵となる人間ではない、彼がいなければ商業写真事業は成り立たない―。そんな訴えは司法を動かし、シゲタは制限付きながら再び広告写真の仕事に就くことを許されました。

日本での活躍

《渦巻》

《渦巻》

アメリカで活躍を続けるシゲタ。そんな彼の活躍がついに日本に届く出来事が起こります。1948(昭和23)年、イギリスヨークシャー州の有力新聞社ヨークシャー・イブニング・ニュース主催の国際写真コンペティションにシゲタは《渦巻》を出品し、世界各国から集まった作品4,800余点の中から、審査員の満場一致で芸術写真部門の第1位を獲得します。この受賞は日本でも新聞各紙が取り上げ、シゲタの名が知れ渡るきっかけになりました。

《ストロベリー・パイ》

《ストロベリー・パイ》

渡米して40余年、すでにアメリカで一流の商業写真家として名を連ねていたシゲタですが、ようやく日本でもその業績が知られることとなったのです。
また、1950(昭和25)年、小西六写真工業(現・コニカミノルタ)の西村龍介氏がシカゴを訪れ、シゲタと交友を持ったことがきっかけとなり、翌1951(昭和26)年のアサヒカメラ4月号の《ストロベリー・パイ》を皮切りに、何号にも渡ってシゲタの作品がアサヒカメラの表紙を飾り、特集も組まれます。この年の秋には、シゲタが送った作品数十点をもとに、アサヒカメラ主催による「ハリー・K・シゲタ写真個人展」が、東京や大阪をはじめとする日本各地で開催され、世界を舞台に活躍する日本人写真家として知られていたシゲタの作品を一目見ようと、写真展には連日多くの人々が詰めかけ、賑わいをみせたといいます。

「私の使命はカメラによって貢献すること」

シゲタは後進の育成にも尽力しています。自分が研究し見つけた技法やアイディアは、惜しむことなく多くの写真家に伝えていきました。この活動は当時のアメリカ社会でも絶賛されています。
「私の使命はカメラによって貢献すること」シゲタはこう言っています。自分を受け入れてくれたアメリカに、自らの持つカメラの技術でその恩返しをしようと思ったのでしょう。
1958(昭和33)年、スタジオを後進に譲り引退。ロサンゼルスに移住し余生を過ごしていたシゲタですが、1963(昭和38)年4月21日に75年の生涯を閉じます。多忙な彼は、ついに故郷上田に帰ることはかないませんでした。しかし、彼の作品は故郷に戻り当館に収蔵されています。海を越えて活躍した彼の功績は、時を経て、この上田の地に伝えられているのです。