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作家紹介

山本 鼎(やまもと かなえ)

山本 鼎 自分が直感感じたものが尊い そこから種々の仕事が生まれてくるものでなければならない

信念に生きた芸術家

創作版画家、洋画家、そして、美術教育運動家として日本の近代美術史上に足跡を残した芸術家・山本鼎。彼の姿をひと言で言い表すのが難しいのは、その活躍の場が多岐にわたるからでしょう。しかし、彼の生き方を俯瞰すると一貫したものが見えてきます。それは「リアリズム(実相主義)」または「自分が直接感じたものが尊い」という言葉に表れています。山本鼎は、版画や絵画の制作においても、また、子どもたちや農村民を指導する児童自由画教育運動や農民美術運動時でも、絶えずこのことを念頭に置いていました。これは彼がアーティストとして生涯持ち続けた座右の銘といってもよい考え方でした。多彩な活躍をした彼には「信念に生きた芸術家」という言葉がふさわしいでしょう。

少年時代の下積み

山本鼎は1882(明治15)年に現在の愛知県岡崎市に生まれました。5歳の時、父・一郎が東京で医師免許取得のため森静夫(森鴎外の父)の経営する医院に書生として住み込んでいたため、母・たけと東京・浅草に移住します。母・たけは、森鴎外の友人・原田直次郎の《騎龍観音》のモデルになったと言われています。小学校4年を卒業した鼎は、浜松町にあった桜井虎吉の木版工房で彫版職人としての修行に入ります。木版工房での仕事は、写真の翻刻や解剖図、商品ラベル等の原図を木版に彫り起こすことでした。この木版は木口木版(=西洋木版)と呼ばれ、年輪面を版面とするもので細部まで表現のできる技法として重宝されました。鼎は少年時代にこの複雑で精緻な技術をマスターします。

《試刷林》

《試刷林》

仕上がった原版で試し刷りを行いスクラップして保管していたようで、そのスクラップ帳を彼は《試刷林》と呼んでいました。この中にはキリンビールのラベルも含まれており、原図を版に起こす高い技術力はその後の創作版画家として活躍する下地となったのです。

一方、18歳になると仕事のかたわらで石井柏亭らが結成していた紫瀾会に入り、絵画の勉強を始めています。複製を旨とする木版職人として生きることに疑問を抱いたのです。

東京美術学校での日々

19歳となった鼎は木版工房での奉公が明け、報知新聞社に入社しますが、翌年1902(明治35)年には東京美術学校を受験し合格。同校西洋画科選科に入学します。西洋画科では黒田清輝、長原孝太郎、岩村透らに指導を受けました。《蚊帳》《ナース》はこの時期の作品で、いずれも黒田がフランスで学んだ外光派の画風が、その指導を通して鼎の作品に影響を及ぼしています。

《蚊帳》

《蚊帳》

《ナース》

《ナース》

《漁夫》

《漁夫》

その一方、鼎は「版芸術の確立」を目指します。1903(明治36)年末から年明けにかけて、鼎は紫瀾会の仲間と一緒に利根川河口の千葉県銚子に旅行します。その時のスケッチを元に制作したのが創作版画の第1号と呼ばれる《漁夫》です。

石井鶴三《山本鼎木版彫刻》松本市美術館©Keibunsha,Ltd.2019/JAA1900217

石井鶴三《山本鼎木版彫刻》
松本市美術館
©Keibunsha,Ltd.2019/JAA1900217

文芸雑誌『明星』に掲載されたこの作品を、石井柏亭は「友人山本鼎君木口彫刻と絵画の素養とを以て画家的木版を作る。刀は乃ち筆なり」と評価しました。石井鶴三は、鼎が《漁夫》を彫る場面を目撃しており、黒く塗られた版面に刀が走るとすっと光が差し込んだと述懐しています。鶴三の鉛筆デッサン《山本鼎氏木版彫刻》(1904(明治37)年頃)は、その頃の鼎が木版を彫る姿を伝えています。また、北原白秋の詩集『邪宗門』や蒲原有明の詩集『春鳥集』に木口木版の創作版画を寄せるなど、「美術的版画」の制作に努めました。

卒業後

1906(明治39)年、鼎は東京美術学校を卒業します。これと同時に鼎は新進気鋭の画家・創作版画家として踏み出すのですが、そこはまだ24歳の若者。近代漫画の祖・北沢楽天が主筆となっていた有楽社発行の風刺漫画雑誌『東京パック』の漫画記者となり生活費を稼ぎます。1コマ漫画のほか4コマ漫画なども描き、それぞれ美術や世相をユニークな絵と言葉で風刺しています。

《雨やどり 婦人の引力》

《雨やどり 婦人の引力》

《雨やどり 婦人の引力》はこの時期の作品ですが、少ない言葉と絵の力で見る者を笑わせます。鼎の処女画論「現代の滑稽画及び風刺画に就て」では、「風刺画は絵の力で勝負しろ。説明の言葉に頼るな。」と力説していますが、その矜持を感じさせる1枚です。

《方寸》

《方寸》

一方で、創作版画家としての活動も本格的に開始します。美術文芸雑誌《方寸》を発刊するのです。山本鼎、石井柏亭、森田恒友の3人で創刊し、後に倉田白羊、小杉未醒、織田一磨など多くの画家が参加し、創作版画の普及と美術評論の発表の場として大きな役割を果たしました。また、20代の若き画家や作家たちが集うサロンである「パンの会」に参加。北原白秋、木下杢太郎など文学者とも交友を深めました。この頃、鼎は《方寸》の誌上で恩師の黒田清輝と対談し、絵を描く時は何よりも「感興から出立しなければならない」と発言していますが、これは後に語る「リアリズムの精神」や「自分が直接感じたものが尊い」という言葉に通じる芸術観で、鼎は早くからこうした信念を持ち合わせていたことが伺えます。

フランス留学時代

《自画像》

《自画像》

《方寸》同人であった石井柏亭の妹・みつとの結婚を断られた鼎は、29歳の夏、フランスへ旅立ちます。「例の事件で大打撃を受けると共に、自暴自棄の情が荒れ狂ったが(中略)丁度天与の如き『洋行』という機会に直ちに乗っちまった」と、フランス留学の心情を両親に書き送ったところからも、失恋の痛手が留学を後押ししたことが容易に想像できます。しかし、この留学こそが、鼎の画家人生に後々まで大きな影響を及ぼします。鼎の留学は1912(明治45)年から1916(大正5)年までの4年余りにわたりますが、この間、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)で版画を学び、ブルターニュ地方、ヴェトイユ、オーベルシュールオワーズ、リヨンなどフランス国内のほか、イギリス、イタリアなども訪問し制作と見聞を広めました。この時期の作品はセザンヌやルノワールなど印象派の画家たちの影響を受けながらも、鼎自身が「リアリズム」と称した清新な画風の作品を生み出しました。《自画像》はこの時期の代表的な油彩画の作品です。

また、創作版画も《デッキの一隅》《ブルターニュの小湾》など、色彩豊かな秀作が生み出されました。

《デッキの一隅》

《デッキの一隅》

《ブルターニュの小湾》

《ブルターニュの小湾》

《日曜の遊び 下図》

《日曜の遊び 下図》

水彩画やスケッチも多数残しています。水彩画の小品《日曜の遊び 下図》はその中でも異質で、日本にいる14歳年下の従弟・村山槐多のために描き送ったものと考えられます。留学の発端は失恋を癒すためでしたが、数多くの芸術に触れる中で鼎の心には一つの確信が芽生えてくるのです。

ロシアで目にしたもの

「僕の成績はパトロンや友人に対して申訳のない程のポーブル(poor)だ。でも、たったひとつ自分は留学の間にはっきりした信念をつかむことができた。それは即ちリアリズムの信念だ。これさえあれば自分の生はきっと正しく強く支持される。」――パリを後にした鼎はそう心にかみしめながら帰国の途に就きました。第一次世界大戦がまだ打ち続く1916(大正5)年夏のことです。シベリア経由で帰国しようと考えていた鼎は、ロシアの首都・ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)を経て、モスクワに立ち寄ります。モスクワの在ロシア日本大使館の総領事・平田知夫の元に滞在し、児童創造展覧会と農民美術蒐集館などを見聞しました。この体験がシベリア鉄道に揺られる中で芽吹き、日本の風土に「児童自由画教育運動」と「農民美術運動」として根を下ろすことになります。鼎は「巴里では見られなかった、或いは気がつかなかったものだ」と後に述懐しています。モスクワでは世話になった平田へのお礼を兼ねて制作した油彩画《平田知夫領事肖像》や、窓越しから教会を前景に広大なロシアの大地と空の広がる風景を収めた木版画《モスクワ》など、作品には留学で得た鼎らしいスタイルが遺憾なく発揮されています。

《平田知夫領事肖像》

《平田知夫領事肖像》

《モスクワ》

《モスクワ》

児童自由画教育運動

《トマト》

《トマト》

帰国した鼎は、東京と信州・神川村(現・上田市)を拠点に活動を再開します。滞欧期の作品を発表するかたわら、日本美術院に参加。同人に推挙されたほか、日本創作版画協会の創立に参加し会長に就任します。また春陽会の設立にも当初から参加しました。《トマト》は日本美術院同人として出品した作品であり、滞欧期の実験的作風から進化を遂げ、実直さや実在感が感じられます。

《児童自由画展覧会趣意書》

《児童自由画展覧会趣意書》

一方で、両親の実家のあった神川村では、地元の青年・金井正や山越脩蔵らが鼎の話に熱心に耳を傾けました。話の内容はロシアの子どもたちが描いた創造性豊かな絵を見聞したときの感動、そしてそれとは真逆の日本の図画教育は改革が必要だというものでした。彼らの計らいにより鼎は神川小学校で教師たちを前に、子どもたちにお手本を模写させる臨画教育をやめ、自由に自然を描かせる「自由画」教育について演説を行いました。それから4か月後の1919(大正8)年4月末、神川小学校で第1回児童自由画展覧会が開かれました。お手本を正確に模写することを評価するのではなく、子どもたちの実感で描いた絵を評価するという試みは大きな反響を呼び、その後、全国各地で「児童自由画展覧会」と銘打った展覧会が開かれるようになります。《児童自由画展覧会趣意書》は、神川村で初めて展覧会を開催する折に配布されたもの。児童らの絵は1万点近く応募があり、約1,000点が入選しました。

《第1回児童自由画展覧会入選作品》

《第1回児童自由画展覧会入選作品》

《第1回児童自由画展覧会入選作品》は、この展覧会で入選した作品の一つです。現在の私たちにはなんの変哲もない農家を描いた絵ですが、当時の臨画教育に慣らされた人々にとっては、自分の感じたままに描くこと自体を評価する鼎の考え方は大変革新的なものでした。これに対し、自由画教育は当時から「写生すれば自由画なのか」と誤解を受けました。しかし、鼎は自由画教育とは「表現の精神」を説くものであると注意しています。「模造よりは創造を勧める」ことが自由画の要点なのです。運動が始まって間もなく、鼎は羽仁吉一・もと子夫妻の創立した自由学園の美術科主任となり、子どもたちに自由画教育の実践を行いました。また、子どもでも扱いやすい画材ができないかと考えていた櫻クレイヨン商会(現・株式会社サクラクレパス)の手がけた「クレパス」の開発にも協力し運動の普及に努めました。

農民美術

《農民美術建業之趣意書》

《農民美術建業之趣意書》

児童自由画教育運動をスタートさせた鼎は、1919(大正8)年の暮れに神川小学校の一室を借りて「農民美術練習所」を開所します。モスクワで訪れた農民美術蒐集館のロシア趣味豊かな手工芸品(=農民工芸・農民美術)をヒントに、日本でも農村生活を美術的趣味で満たし、経済的にも副業として根付かせようと考えたのです。《農民美術建業之趣意書》は、この時、神川村の人々に農民美術制作の意義や支援を呼びかけたもの。最初の講習会はわずか4人の受講生により始まりました。農閑期に行われたこの講習は、男性は主に木彫を、女性は主に刺繍や染織などを行うもので、山本鼎のほか、倉田白羊、小杉放菴、吉田白嶺、山崎省三、村山桂次など鼎と親交のあった画家や彫刻家が講師を務めています。

《農民美術デザイン画》

《農民美術デザイン画》

農民美術にとってデザインは最も重要な要素として早くから意識され、講師たちはそれぞれが図案の発案を行ったほか、講習会では受講していた農村民たちに自然の草花使って構成の学習を行い、クッションやテーブル掛け、木箱や鉢などのデザインの発案を行っています。《農民美術デザイン画》は、農民美術のデザイン開発を盛んに行っていたことを物語っています。1922(大正11)年に鼎は、神川村に日本農民美術研究所を設立し、1924(大正13)年からは全国各地に講師を派遣して農民美術講習会を行い、各地の特色を反映した様々な農民美術の生産を指導しています。

《ブルトンヌ》

《ブルトンヌ》

与謝野晶子はこうした鼎の奔走する姿を「余りに多方面にお働きになるので、それがあの方の芸術の妨げになりはしないかと案ずるのですが」と心配していますが、その通り創作版画家としての山本鼎は1920(大正9)年に発表した木版画《ブルトンヌ》以降、版画の制作をほぼやめてしまいます。農民美術運動が盛んになり、全国に広がるにつれて、制作の時間が限られてきたのです。

再び画家として生きる

農民美術運動は金井正などの支援や、農商務省や県からの補助金、鼎自身による金策、篤志家からの寄附など、様々な収入によって継続されましたが、開始から10年余りが経過した1930(昭和5)年、鼎は運動によって生じた多額の負債を整理するため農民美術研究所の所長を辞任し、東京に引き上げます。この時、彼は両親あての手紙にこう記しました。「私に与えられた残る生涯に対して如何に画策すべきか――躊躇の要なし。私は再び作家(美術の)生活に復帰することです。」以後、鼎は各地に取材し作品制作に没頭するかたわら、帝展参与や新文展審査員などを歴任、洋画家として制作活動に没頭していきました。《独鈷山麓秋意》《瀬戸内》は、こうした洋画家としての山本鼎の円熟味を感じさせる作品です。

《独鈷山麓秋意》

《独鈷山麓秋意》

《瀬戸内》

《瀬戸内》

この時期の鼎の信念を代表する言葉があります。1928(昭和3)年発行の『学校美術』に掲載された「血気の仕事」というインタビュー記事の一節です。これは、現在でも山本鼎の考え方を端的に示したものとして知られています。
「自分が直接感じたものが尊い。そこから種々の力(仕事)が生まれて来るものでなければならない。」

山本鼎は1946(昭和21)年に亡くなりますが、版画家としてだけでなく、美術教育の先導者としてもその名を後世に残すこととなりました。それは誰かの模倣ではなく、自分の感銘を表現することこそが、人間にだけ与えられた喜びであり幸福であることを、子どもや教師たち、そして、全国各地の農村の人々の中に分け入って説き続け実践したからでしょう。