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作家紹介

石井 鶴三(いしい つるぞう)

石井 鶴三 彫刻とは立体感動である 如何なる芸術も感動の上に立っている

「立体の美」を追求し続けた彫刻家

石井鶴三は、彫刻家でありながら、挿絵・版画・水彩・油彩・文化財修復・舞台美術等、多岐に渡る分野で活躍し、教育者としても長年後進の育成に努めました。
「立体の美」や「立体感動」という独自の理論を一貫して説いた鶴三。彼が様々な芸術分野で活躍できたのは、美術の本質を追求していたからに他なりません。また「芸術は人間修行」という言葉どおり、仕事はもちろん普段の生活や対人関係にも一切手を抜く事のない姿勢は、広く尊敬を集めました。
自由学園美術教師、東京藝術大学教授などを歴任、横綱審議委員や文化財審議委員などを通じて、日本文化の継承にも貢献しました。

馬の体から得た感動から「立体の美」に目覚める

鶴三は1887(明治20)年に東京・御徒町の芸術家一家に生まれました。父・鼎湖(ていこ)は明治美術会の創立や、日本美術協会で受賞を重ねた実績があり、兄・柏亭(はくてい)は、12歳の時の作品が宮内庁に買い上げられるなど才能を発揮しました。10歳の時に父が病死し、千葉の船橋の親戚に養子に出された鶴三は、そこで立体への眼が開かれます。馬の世話を任され、あらゆる角度から馬を眺めたり触ったりしているうちに、その不思議な感触、形、生命感に感動しました。これをなんとか表現したいと考え、身近にあった木片や針金を心棒に、土を使って立体の馬を造りました。絵では十分に表せなかったものが、自ら考えた方法で表現できたことに大きな喜びと満足感を得ました。この体験が鶴三を彫刻・立体の世界へと導いたのです。

美術家修行の道

◆不同舎で学ぶ 「和して同ぜず」「だンだ一本の線」

17歳の時、鶴三は東京の実家に戻ります。兄・柏亭はすでに画家として活躍しており、実家には兄の友人でもある山本鼎が下宿していました。自然と美術家を志すようになった鶴三は、兄達からのすすめもあり、小山正太郎の画塾「不同舎」に入りました。
小山の教えの中で鶴三が生涯の指針としたことが二つありました。一つは、「不同舎」の精神でもある「和して同ぜず」。中国の論語の一節からとったこの言葉のように、鶴三は人付き合いを大切にしながらも自分の表現を追い求めました。
もう一つは「たンだ一本の線(で描け)」です。絵を描くときは一本の線に集中し、いのちを込めて描くという気合。この厳しさは鶴三の作品制作に対する精神の基礎になりました。

◆東京美術学校と東京パック

不同舎で一年間学んだ鶴三は、翌年東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学しました。しかしその年に、柏亭が目の病に冒され、鶴三は一家の大黒柱として働かざるをえなくなります。友人の山本鼎の紹介で「東京パック」という風刺漫画の記者となり、午前中は学校へ行き、午後から夜遅くまで働きました。
漫画記者の仕事は若い鶴三にとって楽ではありませんでした。社会を自分なりの視点で切り取りユーモアを織り交ぜて表現し、あらゆるものを素早く描く技術が必要でした。鶴三はいつもスケッチブックを携帯し、世の中を観察しました。更には紙を使わずに頭の中で立体的に描く『空中素描』などをこの時期に身に付けたのです。またこの会社には、当時のヨーロッパの美術雑誌が沢山あったこと、そして印刷についての知識と経験を積めたことは大きな財産となりました。幸いにも柏亭の目は回復しましたが、鶴三はこの仕事を8年間続けました。
一方、美術学校では、かつて指導者として迎えられたイタリア人のラグーザの影響から、彫刻は形を写し取るもの、いわば物形模造(ぶっけいもぞう)だという考え方が残っており、その教えは鶴三が表現したい立体から受ける感動とは違っていました。彫刻の本質をモデルから学ぼうとしていた鶴三は、友人との会話で「彫刻とは何か」という問いに「凸凹のおばけ」だと答えます。それは「凸凹の美」であるとも語り、生涯その考えは変わりませんでした。

◆山と幻影

19歳のとき、石井家に下宿していた山本鼎に誘われ信州を旅した際、初登山の浅間山からの風景に感動した鶴三。それ以来すっかり山に魅了され、毎年のように信州の山に登りました。
鶴三が山の自然と一体になり森林の中を歩いていると、目の前に裸の女や男の幻影が現れることがありました。美しい裸の女が渓流で水浴びをしていたり、小柄な男がそれをじっと見つめていたこともあります。山の風景や、そこに住む動物をモチーフにするのはもちろん、この幻影たちもしばしば作品に登場しています。《風》《海濤》《雷試作》などの作品はそういった幻影を元に、自然への畏怖や尊敬を込めて擬人化した鶴三らしい作品といえるでしょう。

《風》

《風》

《海濤》

《海濤》

《雷試作》

《雷試作》

◆日本美術院研究所

1915(大正4)年、東京美術学校を卒業後29歳の鶴三は、佐藤朝山の誘いで日本美術院研究所に入りました。このことを彼は「美術の道の第一歩を踏み出した」と語ります。当時の美術院彫刻部には佐藤のほか、平櫛田中、中原悌二郎、戸張孤雁、保田龍門らがおり、互いに切磋琢磨していました。研究所には「教師なし、先輩あり、教習なし、研究あり」という決まりがあり、自発的に美術を学ぶ姿勢が重視されていました。東京美術学校時代は仕事に追われ、彫刻に十分打ち込めなかった鶴三にとって、研究所はまさに求めていた環境であり、一心に彫刻の研究に打ち込みます。鶴三はその後、日本美術院彫刻部の中心メンバーとして、1961(昭和36)年の彫刻部解散まで、毎年院展に出品しています。

信州の美術教育に貢献

鶴三が信州の美術教育と深い関係ができたのは、上田彫塑研究会の講師を46年に渡って務めていたことに所以します。この研究会は当初、学校の先生を対象に「手工教育」(現在の図画工作)の研修のために開かれました。
上田で制作していた春陽会の画家・倉田白羊から推薦された鶴三は「先生という立場ではなく、みなさんと一緒に勉強するということなら」ということで講師を引き受けました。鶴三も「美術院研究所を上田に移した気持ちで」参加者と共に真剣に制作に挑んだのです。
研究会での鶴三は、最初から作り方を教えることはしませんでした。そのかわりに彫塑や立体の美とはどのようなものか、またそれらの研究方法をわかりやすく説明しました。
鶴三は第1回研究会の作品《婦人像》に始まり、第6回の《信濃男》、第8回の《信濃男坐像》、第13回の《老婦袒裼》など次々と代表作と呼ぶにふさわしい作品を生み出します。
1970(昭和45)年の《裸女立像(一)》を最後に鶴三は講師を辞めますが、研究会は今でも続いています。

《婦人像》

《婦人像》

《信濃男》

《信濃男》

《信濃男坐像》小県上田教育会

《信濃男坐像》
小県上田教育会

《老婦袒裼》

《老婦袒裼》

《裸女立像(一)》

《裸女立像(一)》

鶴三は上田での研究会がきっかけとなり、長野市や諏訪、下伊那、木曽など、長野県各地から彫刻や絵画の講師、また絵画展の審査員などとして呼ばれるようになり、その名は県内の美術や教育関係者に広まっていきました。

多方面の活躍

◆創作版画

日本の創作版画第1号と言われている山本鼎の《漁夫》。その版を彫っている鼎を間近で見ていたのが17歳の鶴三です。『自画自刻自摺(自分で描いて、自分で彫り、自分で摺る)』という新しい芸術的版画の勃興の現場に居合わせた鶴三、鼎らが発行した雑誌『平坦』にて、初めての版画を発表します。
その後、しばらく版画の制作は途絶えますが、創作版画協会の第一回展にて《泣く子》《雪国》を出品、版画家として認知されました。この時鶴三は32歳ですが、すでに版画のスタイルが出来上がっています。線や構造の確かさ、力強さなどが特徴的ですが、版の表現においても工夫が凝らされています。
馬を題材にした《馬と少年(二)》、長年愛読した古典を題材にした《いへきかな》などが代表作として挙げられます。

《雪国》

《雪国》

《馬と少年(二)》

《馬と少年(二)》

《いへきかな》

《いへきかな》

◆挿絵

鶴三の名が文芸界や一般の人々に知られるところになった所以は、挿絵家としての活躍にあります。初めて単独で新聞連載小説の挿絵を手掛けたのは、1920(大正9)年、33歳のときの上司小剣『花道』です。続いて翌年、同作家の『東京』で大変好評を得ます。その後、挿絵の依頼は増え、中里介山『大菩薩峠』や子母澤寛『国定忠治』など時代小説も手掛けるようになります。内容によってコンテ、墨、白い水彩、洋紙、和紙などを使い分け、様々な場面を的確な構図で描き、読者を物語に引き込んだのです。同じく挿絵を手掛けた小説『宮本武蔵』の作者・吉川英治は、「鶴三氏の挿絵のみは小説から切り離しても画の生命を見失うような恐れはない。個々に鑑賞しても立派に独立して画格と創意とを備えている。」と言って、品格のある鶴三の挿絵を絶賛しました。
鶴三は自身の挿絵は「創作版画」だとして、印刷されたものが原画、すなわち作品であると考えました。よって画稿は、当時の粗雑な紙や印刷を考慮に入れ、紙面に載った時に最大限に効果が発揮されるよう描かれました。東京パックの仕事や版画の制作により、紙に刷る(摺る)ことについて熟知していた鶴三は、ここでもそれを活かしたのです。

《父子鷹「信濃」(4)》

《父子鷹「信濃」(4)》

「展覧会を見る人は限られているが、新聞は見る人の範囲が広く、多くの人が絵画を味わう機会となり、その責任は大きい」と語る鶴三。当初、挿絵制作は美術家の仕事としては世間が認めていなかったのに対し、鶴三の真剣な取り組みが挿絵そのものの評価を高めました。最後に手がけた新聞連載小説、小母澤寛『父子鷹』の画稿が上田市立美術館に収蔵されています。

◆挿絵

芸術家一家に生まれた鶴三は幼少のころから、身近なものや風景を写生していました。彫刻を志すようになってからも絵画を制作する鶴三に対して、どちらか一つにした方が良いと忠告する者もいました。しかし、鶴三が追っていたのは「美術」であり、彫刻でも絵画でも本質は一つだと考えていました。

《奇峯臨水》

《奇峯臨水》

初期の頃、出品したのは二科展でした。1916(大正5)年第三回二科展に《行旅病者》を出品し、最高賞である二科賞を受賞。絵画の実力を認められました。また日本水彩画会や、山本鼎や小杉放菴、足立源一郎らが発起人となって創立した春陽会では会員として活躍。《雷鳥》や《裸女渓流》などを出品しています。1957(昭和32)年からは山岳画会展にも参加し、晩年まで出品を続けましたが、その中には《奇峯臨水》など、彫塑研究会で上田に訪れた際に描いた作品もあります。

◆相撲

剣聖と呼ばれた宮本武蔵の彫刻、絵画に感銘を受けた鶴三は、武道にも美術に通じるものがあると確信し、25歳頃から自ら相撲に取り組みます。その入れ込みようは大変なもので、自宅に土俵をつくってしまうほどでした。四股名は「黒部川」。小杉放菴や中川一政ら、美術界隈の相撲好きと稽古をし、東京美術学校では初代相撲部の顧問、また横綱審議委員、晩年には相撲博物館の館長にもなりました。
同時に相撲のスケッチや絵画や彫刻作品も数多く残しています。特に力士の特別な体つきは彫刻の題材として興味深いものでした。

《相撲(五)》

《相撲(五)》

《相撲(五)》のように、二人の力士がもつれて、その複雑な力の動きを見事にとらえた作品は、ずば抜けた鶴三のデッサン力と構成力を見ることができます。